満足と犠牲

 かつて自信について述べたことがあり、そして自信と満足について述べたことがあり、そして今日は満足と犠牲について述べたいと思います。順序としては、まず最初に必要なのが自信、これは自らの力を頼るということ。自らの力に頼ることで次第に自らのやっていることに満足が得られ(人のいう通りばかりやっても満足は得られるものではありません)、日々の生活で満足が得られると、多くを手放すこと(犠牲)が可能になるとされます。
 
 犠牲といえば、苦しみなどに耐えるというような印象を与える言葉ですが、私は「捧げる」、「悪い性質を手放す」というふうに理解しています。
 「捧げる」という意味においては、神仏に何かを捧げる際には、自分の心が満足するものをこそ捧げるべきだと思っています。つまり自分にとって質のいいもののこと。この「捧げる」態度が自らの本性になっていくと、日常生活における雑事を含め、仕事の質が上がります。そして、より高い満足が得られるともいえます。
 「悪い性質を手放す」という意味においては、過去に書いたことがあるのですが、悪い性質を押さえ込むのではなく、世間に受け入れられる形で昇華することが必要だと思っており、この態度も満足や安心をもたらすことにつながるでしょう。
 
 自らが食べるものがないのに、他の人に食物を与えることはほぼ不可能で、それと同じように、自らの心の安定(満足)がない限り、価値ある何かを他者と分かち合うことはできません。礼拝においても、慈善においても、はたまた自身の向上(投資)においても。
 
 If you let go a little you will have a little happiness. If you let go completely you will be free. — Ajahn Chah
 (あなたが少しを手放せば(物事の道理にゆだねれば)、あなたは少しの幸せを得るでしょう。あなたが完全に手放せば(物事の道理にゆだねれば)、あなたは自由になるでしょう。―アジャン・カー)
 
 この言葉は手放すこと(犠牲)と満足についてふさわしい表現がされています。自由とは完全な満足のことをも意味していると思うのですが、満足は私たちが私たち自身であることのうちにあります。つまり私たちが私たちでないものを少しずつ取り除いていったときに得られます。
 逆に言えば、私たちがもし真の自分を理解していないならば、何らかの犠牲を重ねることによって、少しずつ満足(至福としての真の自分)が得られるはずです。 
 
 身体が汚れまみれの状態でいるよりもお風呂に入って汚れを落としたほうが気持ちいいように、エゴや執着に開き直るよりも犠牲を払ったほうが(心の悪い性質を取り除いたほうが)気持ちいいはず。
 
 パンを作るにはもととなる発酵した生地が必要ですが、それさえあれば、パンは次々に作ることができます。最初の発酵した生地は自分を信頼してさまざまなことを試み続けるうちにできてきます。後はその生地を用いて、多くのパンを作り、それを多くの方々と分かち合っていく。それが物事の順序でしょう。
 生地を発酵させる最初のさまざまな試みが自信に基づいた行為、できあがった発酵した生地が満足、それを用いてパンを分かち合うことが犠牲となります。最終的に世界に平和と調和が広まっていきます。