インドにも食事を捧げる祈りは多分たくさんあることと思います。その一つに次のようなフードマントラがあります。
ブランマールパナム ブランマーハヴィール
ブランマーグノウ ブランマナフタム
ブランメイヴァテーナガンターヴィヤム
ブランマカルマサマーディナー
(捧げる行為は神であり、捧げもの自体も神です。
神によって神であるところの聖なる火に捧げます。
すべてを神に捧げる人は神に到達することができます。)
アハムヴァイシュヴァーナローブートヴァー
プラーニナムデーハマーシュリタハー
プラーナーパーナサマーユクタハ
パチャンミャンナムチャトゥールヴィタム)
(私はすべてを消化する火であるところのヴァイシュヴァーナ
ロー神です。
生きとし生けるものの体に宿る私は
プラーナ、アパーナと一体になって
四種類の食物を消化します。)
これは聖典「バガヴァッド・ギーター」の詩節を二つ組み合わせたものです。食物を摂るものの決意が前半で述べられ(食物を捧げること、そして引いてはすべての行為を神に捧げること)、後半でクリシュナ神が私は消化の火としてすべての生き物のうちにいると宣言し、それらを受け取って必要なものを体全体に行き渡らせると結びます。
このマントラについては多くのことを語りたくなるのですが、今日は、捧げる行為について一言述べたいと思います。
食物をとること一つにしても、人間にできることは、美味しそうなものを手で口に運ぶことだけ。少しばかり噛んで飲み込んでしまえば、あとはすべてのことを体(とそこに宿るもの)が行ってくれます。食べることは人生において行為を捧げることの象徴といえます。
私たちは日々生きていく中で何かを行います。そして執着心をもって行為の報いを求めます。私はこれだけのことをしたのだから、これは当然私が受け取っていいものだと。行為には報いがあるので、ある意味もっともなことです。しかしこういう考えは人を束縛へと導きます。
何かをすればすべてを神様に捧げる。神様に捧げるというのがぴんと来ないならば、些細ではあっても自分の行為が世界に働きかけそれがどういう結果につながるかは世界そのものに任せる。そういう態度です。
少なくともこういう態度でいると気がものすごく楽です。余計な重荷を背負わなくていいのですから。口が食物を飲み込んだら、あとのことは体にお任せするのと同じようなものです。もし食物を飲み込んだあと、消化や栄養の分配、不要な排泄物のことまで人間がすべて気を使わなくてはいけなくなったら、きっとすべての人がノイローゼになってしまうはず。
それと同じように、なすべきことだけを行い、あとは神様、そして世界にお任せすればいいわけです。食事の後栄養のことについて思い煩わなくても体に栄養が行き届いているように、行為の結果について心配しなくても、結局は落ち着くところに落ち着きます。
そして、体にいい物を食べなさいという指示が適切であるように、世界にとっていいことをしなさいという指示も適切であるでしょう。