私の家は浄土真宗でして、浄土真宗の教えで一番大切なのは阿弥陀仏への全託だと理解しています。本当のことを言えば、全託について述べるのは私には少し荷が重いのですが、避けて通れないことですので簡単に触れてみたいと思います。しかしながら、少し的外れなことも書くかもしれませんし、今現在十分に理解しているともいえないので、先々にまた書く機会があるだろうということで全託「1」とタイトルをつけました。
霊的な道において全託は最高の勝利であるとされます。今のところ私はそれを至高の存在にすべてを委ねる(あるいは捧げる)というふうに理解しています。日本語の言葉「全てを託す」というままです。英語ではsurrender(引き渡し、降参等々)という言葉を使うようです。サンスクリット語ではアートマニヴェーダナム(?)だったと思いますが、そういいます。英語のsurrenderはアートマニヴェーダナムを正しく表現していないといわれますが、微妙でレベルの高い人にしか実践できないことですので、そういう言葉を適切に訳すのはなかなか難しいことではあります。
私はかつて自分の師に対してすべてを委ねるのを恐れたことがあります。自分よりもはるかにレベルの高い人であって、状況を私よりもはるかに理解している人であり、私よりも判断が的確な人であったとしても、私は自分が納得していないことをするのに抵抗があったからです。
たとえばクリシュナ神は約5000年前にインドに降臨したアヴァター(神の化身)であるといわれていますが、彼は弟子であるアルジュナにマハーバーラタの戦いにおいて敵を「殺せ」と命令しました。(ヒンズー教の珠玉の聖典「バガヴァッドギーター」はこのあたりのくだりについて述べたものです。)
クリシュナが神の化身であると信じていますが、しかしもし彼が私に誰かを殺せと命令したとき、私はそれに従うことができるのだろうか? 20年ほど前の私は本当にそのことについて深刻に悩みました。全託とはそういう命令に従うということです。
クリシュナの命令のジレンマが時間が経つにつれて解消してきました。神の化身(クリシュナ)はダルマに外れたことを命令することはないと理解できたのです。アルジュナはクシャトリヤ(武人、為政者)階級の人で正義(ダルマ)を守るために戦うことはそれ自体がダルマだったのです。
霊的に”漂流している”ような人の中には親の面倒を見るとか、家族の面倒を見るとか、社会的な役割をきちんと果たすなどのダルマの概念が欠けた人が結構います。自分が特別な存在だと思っているのかどうか知りませんが、ダルマを無視して神様、神様といって、私はすべてを神に委ねたと主張する人がいます。私に言わせればそれは全託ではありません。神に全託すれば、神はダルマの道をより質の高いレベルで実践するように導くことと思います。
ダルマの実践に関して厳密であり、それを通じて肉体のくびきや制限を越えるように導くこと、それが神の導きであり、その高い呼びかけにこたえることが全託であると今はわかります。クリシュナは弟子アルジュナにダルマに従えといいました。クリシュナはアルジュナを自分の道具として使うことでダルマの道を高らかに宣言しました。
(全託について前置きしか書くことができませんでした。またの機会に続きを書きたいと思います。)