愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

イエスの磔

 私はクリスチャンではないのですが、イエスについて考える機会がここ最近何回かあったので、今日はそのことについて触れたいと思います。

 私はキリスト教にはほぼ関心はないのですが、イエス御自身は優れたレベルの高い方だと思っています。聖書に記されている奇跡も行っていただろうし、愛を説くイエスは単なる言葉の人でなく、実際に愛の人であったことも間違いないと受け止めています。

 キリスト教が現在のように広まっている一つの要因は、イエスの磔ではないでしょうか? というか、キリスト教の教学は、イエスの磔を人類の罪を背負ったとみなしていたと思うのですが、少なくともイエスの磔がなければ、イエスの教えが後世に伝えられたにしても、キリスト教が今のようなものであったかどうかはわかりません。

 イエスは私たちの罪を肩代わりして死に至らしめられた。私たちは罪深いとキリスト教徒の人の中には思っている人がいるでしょう。しかし、この点こそ私が結局受け入れきれないところ。
 本を読んでいないので書名だけで判断して(レビューは少し目を通しています)申し訳ないですが、最近『反省させると犯罪者になります』という本が出版されました。罪深いと思うことが求められるキリスト教司祭が、植民地主義の先兵を担い、世界史上稀なほどの苦しみを全人類に与えたこと(そして今も与えていること)の理由の一つを、この書名を見て感じます。

 イエスの磔について今私がどう受け止めているか? 
 「自分を傷つける人を愛しなさい」というイエスご自身の教えを意味していると思うのです。自分にいいことをしてくれる人を愛することはまったくたやすいことです。しかし自分を傷つける人を等しく愛することは困難です。愛に生きていると、時に刃物で刺されるような苦しみを味わうことがありますが、にもかかわらず愛の姿勢を手放さないこと。そして自分を傷つけるものに対しても善であること。それがイエスの最後の教えのはず。
 私の師は"Love all, Serve all"(すべてを愛し、すべてに奉仕しなさい)と教えますが、つまりイエスの磔はこれを意味しています。

 イエスは神の子でしたし、そしてイエスの磔は父なる神のご意志でした。

 付け加えておきますが、世界各地には、特にインドにはイエスに匹敵するほどレベルの高い存在はたくさんいます。世界においては無名ではありますが、異教徒に刺し殺されたインドの聖者は、死ぬ間際に自分を刺した人に対して、相手を責めることなく、「あなたは彼(神)なのです」と説いて肉体を去りました。しかしその亡くなった聖者は宗派を作っていません。

 イエスの磔を人類の罪を引き受けたと解釈すること、キリスト教徒には普通のことなのでしょう。しかしキリスト教徒でないものは別に解釈することがあります。しかしそれは決してイエスを貶めることではありません。