罪と徳

罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて 氷おおきに水おおし 障りおおきに徳おおし。(高僧和讃

上に掲げたのは、親鸞上人の和讃の一つです。親鸞上人は『教行信証』という難しい本を残されていますが、一方わかりやすい歌(和讃)の形で浄土教の教えを人々に伝えています。

私は煩悩の塊でした。今も煩悩はあります。あまりに心が汚染されていたので、何をどうすれば物事は良くなるのかまったくわからないような日々を過ごしていました。かなり汚染されていた心は、規律に従った生活をある程度続けることで、汚れの段階まで浄化されましたが、一時はまともに生きていけるのかと真剣に悩んだものです。

しかし、親鸞上人がおっしゃるように、罪や障りが多ければ多いほど、それを良い方向にもっていくことができれば、身に付く徳もまた多く得られるような気がします。自分ほどの罪人はいないと深く悩んだ親鸞上人の声が上の和讃に現れているように思います。

インドの二大叙事詩の一つに『ラーマーヤナ』があります。このラーマーヤナはインドのみならず東南アジアにおいても人々から愛されている叙事詩です。神の化身とされるラーマ王子にまつわる叙事詩です。

この叙事詩を歌ったのがヴァールミキという名の聖者です。彼は元は人々を襲って生活する悪党でした。しかしあるとき聖者らがラーマ王子の話をしているのを聞き、それに感銘を受け、一心にラーマ王子の御名を唱えるようになりました。長いあいだラーマ王子の御名を唱えていた彼は聖者ヴァールミキへと変容を遂げました。そして彼はラーマ王子の生涯を歌にしてインド全土に広めたのです。ヴァールミキも大きな罪障を功徳へと昇華させた例だと思います。

たまにちょっとした雑誌や本で、ヤクザな生活を送っていた人が信仰に目覚め宗教的な生活をおくっているという記事を見かけます。彼らも同じだと思います。

人間の心の奥には大きなエネルギーが眠っているのですが、それを上手に表現できない間は罪深い生活を送ることがあります。しかし、それを正しく表現する道を見つけたならば、人は大きな前進を果たすことができます。私はこのようなことはありふれていると思っているので、世間的に悪い生活を送っている人をすぐに否定するようなことはしません。

善の道を歩むのは大変な努力とエネルギーを必要とします。善の道を歩んでも、必ずしも世間的な成功が得られないかもしれません。しかし、心の奥にあるものを全人生で表現することができるということは、富や地位からは得られない喜びをもたらします。