愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

今を生きる―舞台としての人生

 過去を振り返らないこと、未来を気にし過ぎないこと、現在に集中して全力を尽くすこと。私の師はこのことを繰り返し教えてくださり、私は意識的にこのことを心がけています。

 過去は過ぎていったものです、決して返っては来ません。未来はまた確かではありません。どうすることもできません。私たちに与えられているのは、ただこの現在です。

 現在に生きるとはどういうことでしょうか? わたしときどき仕事に携わりながら、仕事とは別のことを考えていることがあります。それは現在から意識がはずれているのです。人と話をしながら、会話の内容とは別のことを考えている時もあります。それは現在から意識がはずれているのです。頭でいろいろ考えます。その時現在から意識がはずれているのです。

 私は小さいときや、あるいはこの何年の間かにおいても、ちょっとした劇に参加したことがあります。そのとき、気分が高揚し、上手に演じなければ、セリフを言わなければと、それだけに気持ちが集中します。現在に集中するとはそのような状態だと思います。

 この地球は、広大な舞台のようなものです。すべての家庭で、すべての会社で、すべてのお店で同時進行で何億という舞台がこの地球上で繰り広げられています。その舞台を時に観客のように眺めることもありますが、ヒッチコック監督が自分の映画にわき役で出演するように、自分も目の前の舞台に参加さえします。ちょっとしたことで目の前の人が喜んだり、怒ったりして、この人生の舞台というのは、決して飽きが来ることはありません。家族との生活は、毎日がほとんど似たようなことの繰り返しかもしれませんが、それでも毎日毎日が味わい深いものです。笠智衆の映画のようです。この、人生というドラマの奥深さを一度でも味わえば、テレビドラマや映画が「人工的」であることに気づきます。

 私の師は人間(マニシ)をひっくり返して描いたものが映画(シネマ)だと教えてくれました。映画は人間の真実から離れたものを描いているのです。

 人は死ぬとその人の一生をパノラマのように見ることになると言います。死んだ後で、人生の振り返りが行われるとのことです。そのように、私たちの人生は、何かフィルムのようなものですべて記録されているのでしょう。未来の台本を書くのは誰でしょうか。人間、自分でしょうか、あるいは天界の神々でしょうか。ある程度年をとると、人生は思う通りに行かないことにほとんどの人が気づくと思いますが、たぶん人生の台本を書いているのは人間、自分自身ではないのです。人間にできるのは、台本の枠内で、一生懸命演じることだけです。

 乞食の役と王様の役のどちらが尊いでしょうか。どちらも舞台には欠かせません。舞台から降りれば皆同じ役者です。貧乏人と金持ちはどちらが尊いでしょうか。舞台から降りれば皆同じです。富はたんに舞台の小道具に過ぎず、死んだ後もっていけるものではありません。男と女とどちらが尊いでしょうか。舞台から降りれば皆同じです。魂には男や女はないと言います。

 私の師は、現在は種で、過去も未来も木です、と教えてくれました。現在は過去の自分からこぼれた種であり、種は将来大きな木となります。過去を知るには、現在の境遇を見ればいいと言います。過去の結果が現在に表れているのです。未来を知るには、現在行っていることを見ればいいと言います。現在行っていることが未来に花咲くのです。だから、過去も未来も現在のうちにあると言います。現在こそが人間に与えられているすべてです。

 すべての聖者や賢者はこのことに気づいていました。だから、皆すべての人が例外なく次のように言ったのです。「善を見なさい、善を行いなさい、善でいなさい」と。今善であれば、すべてが善となるのです。世界中の60億の人が一斉にこの教えを実行したならば、世界中の問題は、一瞬にして解決してしまうでしょう。