愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

善と悪

善と悪の問題には誰もがいつか直面するのではないかと思います。私も善と悪のジレンマに直面したことがありました。

お釈迦様がふとした時につぶやかれた言葉に次のようなものがあります。「もろもろの悪はなすことなく、もろもろの善は行い、自らその心を浄くせよ。これ諸仏の教えなり。」これはあらゆる宗教が教えていることでしょう。悪いことをしなさいと教える宗教は一つもありません。

同じくお釈迦様の『ダンマパダ(真理の言葉)』には「善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。」「同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいと願う人が毒を避けるように、人はもろもろの悪を避けよ。」などの言葉があります。

しかし一体善と悪とは何なのか時に考え込んでしまうこともあります。私は持病があり、病気によって人生の何かを失いましたが、そのおかげでずいぶんと内省の機会が得られ、人間として成長することができたと思っています。おいしいものを食べることは大きな楽しみですが、そのおかげで病気になる人もいます。宝くじがあたったおかげで人生が破滅した人もいたりします。善と悪を区別するのは難しくもあります。

善と悪を決めるのは時間だという人もいます。食べ物は良いものですが、それを食べると排泄され悪いものになります。時間の経過が良いものを悪いものに変えたのです。まだ熟してない果実は食べられませんが、時間が経つとそれは熟しおいしくなります。時間が悪を善に変えました。原発もそうかもしれません。電気を作っているあいだは良かったのですが、津波によって破壊され放射能汚染をもたらしました。

リンゴはしばらく放っておくと腐ってきます。腐ってない部分が善で、腐った部分が悪です。腐った部分だけを取り除いて残りを食べることができます。アリは砂の中に砂糖が混じっている時、砂糖だけを選んで運んでいきます。同じように世の中は善と悪が入り混じっていますが、識別心を働かせれば、善いものだけを取り入れることができます。

また次のように言うこともできるかもしれません。愛は本来善ですが、歪んだ形の愛は悪であると。すべての人が何かを強烈に愛しているといいます。ヒトラーは健康や自然を愛していましたが、彼の愛はおかしな方向へ行きました。イエスを殺した人々は儀式や権威、富を愛していましたが、彼らの愛も好ましいものではありませんでした。国を愛することは自然なことだと思いますが、それが歪むと多くの人に苦難をもたらします。

実は私は善悪にこだわった生活をしていません。現在私は人生に選択の余地を感じることがほとんどなく、目の前にある道をゆっくりとですが、着実に歩み続けることで精一杯です。

私の師は、「起きることはあなたにとってすべて善いことだと思いなさい」と教えてくれます。何が起きようと、その機会を活かすことができれば、それはすべて善になります。世界で起こっていることに対して肯定的な態度で生きることが大切に思います。