SNS上で学習法について述べていた方がいましたので、私も自分の学習法について書いてみたくなりました。学習法の特殊分野になると思いますが、受験勉強の仕方を解説した本などはたくさんあります。私は受験の時も大学生の時もそれから40年近く経った今も、学習法は変わりありません。とてもシンプルです。その学習法にどれくらいの一般的効果があるかはわかりませんが、例えば私がブログやツイッターに書いてあることなどはすべてこの学習法に基づくものです。
私は地方の進学校に進みましたが、大学受験に真剣に取り組んだのは高校3年の2学期になってからかもしれません。それまでは好きなように過ごしていました。塾にもいっていません。進学校ですから優れた人は多くいて、私の成績は数学を除いて平均よりやや上かなというくらいでした。数学だけはその高校では飛びぬけていました。普段勉強する時間の半分以上は数学の勉強をしていたかもしれません。好きこそものの上手なれといいますが、勉強すればするほど視界が広がるようなところがあって、勉強が苦になりませんでした。
大学に進んで、高校の時以上に優れた人がたくさんいたので、私の成績は下位だったのではないかと思います。しかしながら長所の一つだと思うのですが、私には嫉妬というものがほぼありません。優れた人がいればうれしいくらいでした。なぜならば優れた人たちがさまざまな重みを背負ってくれると普通に考えていたからです。私の負担が減るのです。20歳にならない頃からそれが自然な考えでした。大学生時代成績は良くなかったのですが、そうはいっても勉強量は上位ではないかと思うくらい勉強しました。特別な学習法というのでなく、必要な資料・書籍を十分に読んで熟考するだけです。卒業するために単位をとらなくてはなりませんが、他の人よりいい成績をとる必要はなく、ただ自分が理解することが重要でした。学校には優れた人たち同士でいろいろなことを話し合っていましたが、私にはその人たちの話している内容が理解できませんでした。しかし不思議なのですが、その人たちの中には大学院に入学することができなかった人がいたものの、一方で私は大学院に進学することができました。大学院に進学したといっても、私はほとんどなにも理解していないということくらいは理解していました。
大学院では指導教官に書物を与えられてそれについて自分で学習し、それを研究室の方々の前で発表していくことがゼミの中心でした。しかし私に与えられたテキストに関する内容に関して取り組んでいた大学教授は日本に一人いましたが、結局その教授も十分に理解しきれなかったような特殊な分野でした。私の指導教官もほぼ理解していません。というより、ほとんど日本では未知の領域なので、何人かよその教授が聞きに来ていたくらいでした。もし私が特別に優れた能力を持っていたらそれでも何とかなっていたでしょうが、適切な指導を受けれず、次第に行き詰まってきました。研究室の先輩は、「これは修士の段階ではなく博士課程で研究するレベルだね」といってくれましたが、どうしようもありませんでした。十二分に時間をかければ何とかなったかもしれませんが、その内別の要因で健康を崩し、学業を断念せざるを得ませんでした。しかしそうはいってもそれなりの見解を残した上で大学を去りました。
それ以来関心のあることは学び続けてはいますが、体系的に深く学ぶことはずっと減ったと思います。仕事で必要なので会計のことを学んだり、英語の勉強をしたり、あるいは霊性の学習をしたりとしました。私の学習法はシンプルです。できるだけ標準的で質のいい資料や書籍を読み、それを熟考します。昆布を噛めばそのうち味がしみてきますが、それと同じように資料や書籍を熟考しているうちに何かがしみだしてきます。あとはそのしみだしてきたものを言葉で体系化するだけです。もしかしたら熟考しているうちに何かがしみだしてくるということの意味が分からない人がいるかもしれませんが、思考の対象となっているものの本質がにじみ出てくるのです。これは体験を通じて理解してもらうしかありません。私がやってきたことはこれだけです。その見解が世間から見て優れているかどうかは関係ありません。まずは私自身が納得することが大切です。それは独りよがりかもしれませんが、最初の段階で質のいい資料や書籍を選んでおけば頓珍漢な結果は出てきません。サイババはシュラヴァナム(聞くこと)、マナナム(熟考すること)、ニディディアーサナム(理解したことを実行に移すこと)といっていたと思いますが、これまでの半生を通じてやってきた学習はこれに尽きるといっていいでしょう。
質がいいものを見分けるにはどうすればいいかという問題があると思います。質のいいものを見分ける目を養うには、質のいいものだけに触れ続けることが大切だとよくいわれます。そうだと思います。一般に学校の学習においては教科書は質のいいものです。他にもいわゆる古典には質のいいものが多いでしょう。私は多分質のいいものに触れてきたので、サイババの言葉を見たときにすぐにそれが本物であるとわかったのです。逆に、いいものと悪いものを両方見せられ、これがいいものでこれが悪いものだと教えられても、いいものを見分ける目は身につかないといわれます。いいものを見分ける目がついたならば、何を見てもその中に何かいいものを探し当てることができるようになります。それがシュラヴァナム(聞くこと)ひいては読むことの秘訣です。マナナムの秘訣は、聞いたこと読んだことをさまざまな角度から試行錯誤しながら味が感じられるまで熟考することです。味が大切です。見解が得られたならば、人生のどこかでその見解を取り入れることです。これが私の学習法です。