全託9

つい1ヵ月半前に全託について書いたばかりです。それが事情により、また全託について書くことになりました。私の置かれている状況に変化が生じ、いろいろ考えることがあったからです。今回は1ヵ月半前に書いた中で特に「主人の意向を理解できるか」つまり神のご意志を理解できるのかということに主な焦点を与えます。

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この記事を参考にします。この中に次のような言葉があります。『全託とは、あなたの思いを問題から引き離すことです。困難や悩みから思いを引き離すことです。あらゆることを私の手に委ねて、「主よ、あなたの御心が行われますように」 と言いなさい。それはつまり、「神様、あなたがすべてを御手にお引き取り下さって、私にとって一番よいように解決して下さることを感謝します」と祈ることです。』ここでスワミ(サイババ)は簡単に「あなたの思いを問題から引き離すことです。」とおっしゃっています。しかしこれは全託したつもりになっている人にとってはかなり困難なことです。特に極度のストレスにさらされ、状況次第では人生の破局に直面しなければならない可能性があるケースではです。真に全託している人にとっては、心配事は何もなくまったくの平安です。もし全託していると主張しても、心が平安でなければ実際には全託していないわけです。口だけの全託です。そういう類のものは無視して構わないでしょう。全託していたならば、苦しみを身に引き受けていたとしても心は平安なわけです。

 

さて、口先だけは全託していると主張する人にならないために、人はどのような資質を身につけなければならないでしょうか?最近次のような言葉を目にしました。

 

"When you become all-embracing infinite Love, the Divine will manifest in and through you."(サティヤサイメディアセンターのツイートから)
(もしあなたがすべてを包摂する無限の愛そのものになったならば、神のご意志はあなたの内にあなたを通じて現れるでしょう。)

 

また次のような言葉が『プレーマダーラ』の45ページにありました。


「あなたが完全に神の意志に服従するのであれば、直ちに平安と至福がもたらされます。この自己の全託は、神と神の属性を絶えず憶念することによってのみ得ることができます。」

 

この二つの言葉によれば、私たちが24時間神や神の属性を憶念していて、しかも(愛する人loverではなく)愛Loveそのものになった時に、全託が可能で主のご意志を理解(しそれに従うことが)できるということです。私の理解では24時間神を憶念していて、愛そのものである人だけに許されたものが全託だと思うのですが、神様は寛大ですからパートタイムの全託者も十二分に守ってくださることでしょう。

 

神のご意志が理解できたならば、すなわち少なくとも当面の一歩をどのように踏み出せばいいかがわかりさえすれば、それを実行するだけです。その繰り返しをし続けるだけです。そして自分の思いを問題から引き離しておくことです。これが全託です。私はこのような見解を抱くようになりましたが、この見解をある程度の期間(例えば数年間)実践してきていませんので、今後このような試みをしてみようと思っているだけで、今の時点では単なる見解です。

 

なので次のようなことを思うわけです。主のご意志の通りに従っていると、私が想定している私の未来はすべてあるいはかなりの部分手放すことがありうるということです。人生の計画を立ててもそれは単なる慰めであり、もし自分の立てた計画に固執するならばそれは全託ではありません。

 

私は大学を卒業するころには私なりの未来への思いがありました。しかしその想定とは全く異なる人生が待っていました。また30歳前後にも私なりの想定があり、たとえばサイババの指針に沿って日本文化への理解を深めたいと思っていました。しかし結局はそうはならず、よりサイババに接近することとなりました。サイババに接近することにより、日本の中の自分ではなく世界の中の自分としての自覚が普通のこととなりましたが、これは過去の私には想定外のことでした。そして今です。過去の例と同じで私には私なりの想定はあるのですが、その想定はもしかしたら覆されるのかもしれないという感覚はあります。私はサイババの御教えの中で特に奉仕に強い関心がありますが、晩年は自分で定めた特定の奉仕に携わりたいと思いつつ、そしてそれが無理であるというわけでは必ずしもないのですが、単に奉仕をするというよりも、「自分自身であること=奉仕」という意味での奉仕が中心になるかもしれないと感じているわけです。単にプロジェクトとしての奉仕ではなく、サナタナダルマ(永遠のダルマ)の維持を目的とする活動です。

 

全託するとき、神は全託する者の人生の面倒を見るでしょうが、全託する者の人生は世界の運命の中に位置づけられた運命なわけです。いつも世界と共にある個人の運命です。世界中でさまざまな人が苦難を味わっていて、日本にいるとそういう人たちの苦しみを身に自覚することはほぼありませんが、全託する者はそれらの苦しみも感じはするでしょう。世界の不条理を結果として引き受けざるを得なくなるでしょう。しかしそのように全託する者のアイデンティティは世界そのものとなり、自らを整えることが、どの程度かはわかりませんが、世界を整えることにつながる、そういうような運命なわけです。サナタナダルマの維持です。私が神に全託する人生を選ぶならば、晩年はそういうものになるのかもしれないなと最近感じた次第です。