全託8

 

約2年ぶりに全託について書いてみます。前回は「全託7」という記事で、すでにできている流れに沿って生きるということを舟に掉さすことになぞらえて書きました。今回もそれに似ていますが、少しばかり新たな考え方が含まれていると思います。

 

今日は全託を車の運転になぞらえてみます。私たちが普通自分と呼ぶものはエゴのことですが、エゴはエゴとしてそれを車の運転手に例えてみます。車の後部座席には主人がいて、主人は運転手にどこそこまで運転してほしいと伝えます。運転手はその指示に従って車を運転します。車を運転しているとき、周囲を走る車の状況や交差点の状況などを確認しながら、事故にあわないようにします。アクセルを踏んだりブレーキを踏んだり、方向指示器を出したりします。運転手は目の前のことに集中しています。数分前に通り過ぎた交差点のことをいつまでも思い浮かべてはいません。手をハンドルから離すこともありません。感覚器官(目)、手、判断(頭)は流れ続けています。このように今に集中し続けて後、30分か1時間かあるいはそれ以上たって目的地に到達します。目的地で主人を下ろして任務はおしまいです。

 

全託というのは、この車の運転に似ていると思うのです。どの点が似ているかというと、まず目的地を念頭にそこへの到達のために運転するということです。全託というのは霊性の道を歩む人だけに与えられるものです。霊性の道における目的は、その表現の仕方は文化や宗教によって異なりますが、私は「解放」という言葉で表したいと思います。その目的地を目指して、霊性の道を歩むのですが、その道を歩むにおいて独特な道が全託です。私にはわずかばかりの決定権もありません。

 

また車の運転においては感覚器官と手と判断は流れ続けます。このことは重要です。人生という旅路においても、行為と感覚器官と判断は流れ続けていなければなりません。生きている限り人間は行為に携わります。しかし行為の種類や行為の結果に執着してはなりません。ただ行為し続ける、つまり行為を流し続けるのです。また感覚器官を通じてさまざまなものを見聞きし、そこから情報を得、思考の材料とするかもしれませんが、感覚されたものに執着してはなりません。特定の感覚(とその対象)に執着すれば事故が起こります。感覚は無執着をもって流し続けなければなりません。判断(識別)も流し続けなくてはなりません。車の運転においては場所ごとに右に曲がったり、左に曲がったりしますが、全面的に右に曲がるとか、全面的にスピードを上げるという判断はしません。それと同じように、人生においても全面的にこうであるという判断(識別)をもつことは危険です。判断(識別)は流し続けなければなりません。行為、感覚、判断に執着をもたずに流し続けて初めて主人を目的地に運ぶことができます。人間は主人の召使であり、召使であるためには自分の意志を持ってはならず、自分の意志を持ってはならないということのかなりの部分は、行為、感覚、判断を流し続けるということです。

 

そして、そもそも主人の意向を理解できるかという問題もあります。人はこの目的のために内なる道具(内面)をきれいにしておいて、内在者の意志が的確に反映されるよう保つ必要があります。世界は流れているのであり、その世界の中に生きる私たちも流れています。メダカは自分が泳ぎたい方向に泳ぐのではなく、群れに盲目的に従っているようですが、人間は動物ではないので、世間や流行に従うのではなく、確かに内在者が示すところに従わなければなりません。少なくともこれができるレベルにまでは向上しておく必要があります。内在者の指示を適切に受け取っているかどうかを判断する材料として、諸聖典や聖人賢者たちの自伝が参考になります。

 

他にも必要な条件はあるでしょうが、少なくとも上に挙げた条件は最低限満たしていなければ全託というのは難しいのかもしれません。全託というのは、超越者が行為し、超越者が楽しみ、超越者が結果をすべて引き受けるということです。行為の最初も最中も最後も一貫して超越者のものであるということです。超越者がこの体を用いているということです。それが一生続くということです。私が聞く範囲では、これは最も難しい課題の一つであり、しかし真の平安への唯一の道であるようです。英知の傾向ではなく、帰依の傾向が自分にあると実感している人にとっては最高の到達点であり、真に全託できているならば、そもそも人生の目的(モクシャ、解放、解脱)のことすらもほぼ考えなくていいのかもしれません。実際のところ、自分の解脱を考えることもエゴだと聞きますし。