至福鞘1

 

前回は理智鞘について書きました。多分そこに書いたものが私なりの理智鞘に関する決定版に近いものであろうと思います。バーラタ(インド)思想で鞘というとき、その原義は覆いという意味です。人間は衣服で自らの肉体を覆っていますが、そのようにアートマ(真我、自己、Self)は5つの覆いで覆われているということです。前回書いたのは主にその覆いを取り除くことに関してでした。まさに理智鞘は覆いそのものでした。さて、理智鞘に関して私なりの決定版を書いたとなれば、次はその奥にある至福鞘です。今回は今私が理解している範囲でこの至福鞘に関して書いてみます。

 

至福鞘は原因体といわれることがあります。人間が生まれてくる原因にかかわるものです。人生のさまざまな事象の原因にかかわるものです。カルマと呼ばれるものがその本質でしょう。つまり至福鞘はこのカルマの解消に関係するものです。人生において意図せずとてつもない困難に直面し、それを乗り越えるのに10年を超える歳月が必要になることがあります。その人は理智鞘を開発していなくても、至福鞘の影響を受けるということです。カルマの解消を試みるとき、それが理智鞘の開発を伴うことがあるでしょう。

 

私はこのブログで仏教でいう仏国土とは各人固有の世界のことで、それは至福鞘のことではないかと述べたことがあります。カルマは何千年、何億年、何十億年にわたって蓄えられてきたもので、それらにまつわるありとあらゆるものごとが関係しているという意味で、至福鞘は一つの世界と呼べます。

 

またお釈迦様は若くして成道なさいましたが、肉体を離れるとき(死ぬとき)に涅槃に達したと人はいいます。それはお釈迦様は成道において至福鞘に達し、後の50年間においてカルマを解消しきったと解釈することができます。お釈迦様は高度に進化された魂であったのは間違いないでしょうが、サティヤサイババによれば神的存在(アヴァター)ではなく人間であったとされます。お釈迦様の死ぬまでの50年間が至福鞘を生きる大きなヒントになりそうです。

 

タイティリヤウパニシャッドによれば、至福鞘も鳥の比喩がされていて、その頭はプレマ(霊的な愛)だとされます。大雑把にいってしまえば、至福鞘の開発は愛に生きること、愛における諸調整のことです。長い期間にわたる愛の諸調整がカルマを解消していきます。愛の諸調整というとき、すぐに思い浮かぶのは、愛と奉仕に生きることです。存在において愛であり、行為において富や地位などへの執着を手放し時宜にかなった必要な犠牲を払うことです。これはサティヤサイババの最大であり中心となる御教えでした。またカルマの清算ということを考えたとき、私たちは縁のある人つまりカルマ的に関係のある人とこの世で関係することが多いので、それらの諸関係において義務を果たすことや許しが必要になってきます。これも愛における諸調整です。またさらに愛とは人生の拡大のことであるともいわれます。さかな君によれば、魚は狭い水槽に入れておけばいじめが始まり、広い海にいればいじめなど起きないとのことです。了見の狭さと愛は現実に矛盾することが多々あります。ハートを家族から社会、国家、世界さらには宇宙大へと広げていく方向で生きていくことは愛に関係します。サイババは「拡大は愛であり、収縮は死である」とおっしゃっています。拡大か現状維持か収縮を選択しなければならないならば、できるだけ拡大を選ぶのが愛にかなうのではないかと思います。また愛は光や灯火に例えられることがあります。その人が著名でないとしても、愛の人は身近な人にさまざまに方向を示します。現代人は必死に目を凝らして手本になる人を捜し求めているといわれますが、つまりは真に愛の人を探しているわけです。現代の暗黒の時代において、愛の人はただその存在が人々に光と暖かさを提供し、砂漠におけるオアシスのように人を憩わせます。

 

サティヤサイババのサティヤは真理という意味で、タイティリヤウパニシャッドにおいてはサティヤは理智鞘の構成要素とされています。そしてサティヤサイババの後にはプレマサイババが来られるとされていて、プレマは今日書いたように至福鞘の構成要素です。サティヤサイババの御教えに従って理智鞘を開発したものが至福の鞘の開発つまりプレマサイババの時代を楽しむことができます。サティヤサイババはサティヤサイババの代で仕事はほぼ完了していて、プレマサイババの時代は少しばかり調整があるだけだとおっしゃっていました。つまりプレマサイババの時代は、愛における諸調整の時代なのです。サティヤサイババは世界中に多くの人を育て、それらの人々はエデュケアを通じて理智鞘を開発していますが、それらの人々の愛の歩みが新しい時代を作っていきます。私は今後100年はそういう傾向の強い時代であると思っています。