AIと車

 

AIの活用が進んでいるようです。様々な領域でAIの話題を聞くようになりました。世間の耳目を集める大きなきっかけとなったのはAIが囲碁の世界チャンピオンを破ったことでしょう。それ以後AIの一層の開発が進められています。最近ではchatGPAのことをよく聞きます。私は実際にはAIが組み込まれたプログラムを個人的に利用することはほぼないと思うのですが、いろいろなところでその事例を目にします。今日はその目にした事例を元に、私のAIに関する考えを書いておきたいと思います。

 

一般論になりますが、コンピューターは結局のところ計算機に過ぎず、AIは計算のための一つのプログラムなわけです。計算機と計算のためのプログラムという枠組みは何十年前から変わっておらず、ただその計算量の拡大と計算をある種の近似と考えたとき近似の精度が上がっただけにすぎないわけです。プログラミングを0と1の組み合わせに関するアートと捉えたとき、一般のアートに流行があるように、プログラミングの世界にも流行があって、その一つがAIだというわけです。

 

さてAIの素晴らしさとは一体何なのでしょうか? 多くの人々がそれに関して論じていて、私はそれに目を通せていないのですが、しかし私も一つAIの素晴らしさを書いておきましょう。それは論理の重みを人々に代わって支えているということです。私は若い頃に数学をしていましたし、あるいはここ数年はコロナに関係する様々な見解の一部を私なりに吟味しようと試みました。そういうとき必要となるのは論理です。論理のない数学や科学、論理が破綻している数学や科学はもはや数学や科学ではありませんので、論理に関しては厳密にたどる必要が出てきます。しかしながら、私を含めて多くの人にとっては、簡単な論理ならまだしも、複雑で推論が長きにわたる論理をたどることは結構負担があるものです。時間をかければある程度のことはできるとしても、超一流の人の論理や推論をたどることは普通は非常に困難です。また桁外れな莫大なデータ量からある種の規則性を演繹、帰納することも非常に困難です。現代の人間は論理の困難性に直面していると思うのですが、この論理の重みを支えるものとしてAIがあるのではないかというのが私の見解です。AIは今のところ計算するだけです。半導体に組み込まれた電子回路に沿って、分子の性質か電子の性質かはわかりませんが、物質の論理性を100%信頼しています。AIには論理しかなく、つまり人間がこれまで自分たちの頭脳で担ってきた論理を肩代わりしているのだというのが私の見解です。しかし論理学の本を手に取ったことのある人はわかるでしょうが、論理は論理だけでは面白くもなんともないわけで、またそれだけではある種無意味なわけです。少なくとも現象に何らかの関係性が感じられる論理にしか魅力はないわけです。

 

私はAIは車に対比させるのが適切なのではないかと思います。車は人間が自分の足で走るよりも早く移動することを可能にしてくれました。人間の体の重みを支えてくれています。AIは人間が自分の頭脳で計算するよりも早く計算して結果を出してくれ、そして論理に押しつぶされそうな頭脳への負荷を支えてくれています。このように似ています。

 

車が現れたことで世界のありようが変わってしまいました。馬車や牛車を使っている人は今はいなくなりました。車の出現で新たな流通の仕組みもできあがりました。車は特に地方では生活に不可欠なものとして多くの人に利用されています。古くからの仕事をなくし、新しい仕事を作り出し、ただ車に乗ることを楽しむだけの人も多くいます。同じようにAIは多くの仕事をなくし、多くの仕事を作り上げ、またAIと戯れることを楽しむ人もこれからたくさん現れるでしょう。人間は国の中を移動するのに何百キロも徒歩で移動することから解放されたように、AIは苦行ともいうたぐいの論理・推論から人間を解放するでしょう。

 

しかし一方で車のお陰でいくら便利になったとしても、人間は自分の体の健康を維持するためにある程度の距離は自分の足で歩かなくてはなりません。同様にAIが今後いくら便利になったとしても、頭脳の健康を維持するためにはある程度の思考や推論は自ら絶えず行わなくてはならないでしょう。思うのですが、日常生活の8割9割のことは自分の頭で考える素朴なアイデアで容易に解決できます。AIが便利になったとしても、体育の必要性と同様に自分の頭脳を使った学習は必要です。そもそも科学技術は「障がい者」のためのものです。不得手なものを補うためにあります。障がい者が必要に応じて何らかの道具を活用するように、人間はAIなどを活用すればいいわけです。AIは未来のことはわかりません。現在生きる人が過去と同じように生きれば、過去のデータを元に結論を出したAIの見解は素晴らしく感じるでしょうが、現在を生きる人は過去の自分や過去の世代と同じように生きることを果たして望んでいるのでしょうか? 車社会は大いなる利便をもたらしましたが、交通事故や大気汚染などももたらしました。AIも大きな利便をもたらすでしょうが、その他の弊害も指摘されます。自動車の社会的費用と同じように、AIの社会的費用というものが考慮された上で、上手に付き合っていくのがいいと思います。