愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

妄想・迷妄について

 
今日は妄想・迷妄について書いてみたいと思います。妄想・迷妄とは「真実でないことを真実であると思いこむこと」と定義できるのではないかと思いますが、そもそも何が真実であるかがわからなければ、あらゆる思いが妄想・迷妄であると断定されかねません。なので妄想・迷妄について考えることはそう簡単なことではありません。
 
たとえば次のような言葉があります。
「宇宙にはあなたの他には何も、あるいは、あなたより上のものなど何もありません。これ以外を考えたり、あるいはこれ以外を証明しようと試みるのは、マノーブラーンティ…夢に似た精神(マインド)の妄想です。」(ババ)
この言葉の定義によれば、おそらく人類の99.999999%かそれ以上は妄想・迷妄の世界を四六時中泳いでいることになります。私もその一人です。
 
世間で妄想といえば、事実でないことを前提として思いを巡らしたり、世界を作り上げることというような意味合いに近いでしょうが、陰謀論などはほぼ妄想の世界です。誇大妄想という言葉も聞いたことがあります。性的な妄想もあります。ウィキペディアには次のようにあります。
 
 
妄想は精神病理の範疇であると考えられているようです。しかし日常的に軽い意味で用いられる妄想は世間にかなり広まっているのではないでしょうか? 歴史認識一つとっても多くの立場があり、私は誠実な学者が信頼できるとする歴史資料を受け入れますが、トンデモ説を唱えるそうでない人が多くいたりします。また人は自分の記憶を自然に組み替えるとはよく聞きますし、事実でないことを前提としているならば、その記憶は虚偽か妄想といわれても仕方がない面があります。
 
先月4月22日に外出先で朝日新聞のコラム「折々のことば」を読んでいたのですが、正確な文言を忘れましたが、「自分の中は空洞にしておけばよく、そこを何かで満たそうとしたときその何かが妄想といえるものだ」というような趣旨のことが書いてあったと思います。(この記述自体も私による記憶の組み換えです。事実でない可能性があります。)この定義はおもしろいですね。
 
一般の人は外的な迷妄にとらわれているとされます。たとえばお金や家族に重みを置きすぎることです。富も家族も死の際には必ず手放さなければなりませんが、それが命の支えのように感じています。地位や名声もそのような外的な迷妄に属します。もう一つの迷妄は、内的な迷妄です。これはいわゆる霊性の道を歩む人が抱えている迷妄です。私は霊性の道を歩んでいる優れた人間だ、私は神に到達しなければならない、人生の目的は解脱だ、などなどありとあらゆる内的な迷妄があります。いわゆるスピリチュアルな人とはこのような内的な迷妄の奴隷となった人のことです。一般の人は外的な迷妄に囚われ、霊性の道を歩む人は内的な迷妄にとらわれていますが、外的な迷妄も内的な迷妄もまったくない存在がいわゆる神だとされます。だから自分の内を空にしている人がどれだけ尊いか、折々のことばにある妄想の定義がどれだけ妥当かがわかります。
 
人の感覚器官が機能している限り人は世界を認識しますし、それについて思考しさまざまな概念を作り上げ、最終的にそれを記憶します。なので人が妄想・迷妄から逃れるのはなかなか難しい面があります。
 
少し脇にそれますが(下の記事に)次のような言葉もあります。
"Surrender" implies a person offering himself or his possessions to another person. But, really, it is more like the abandoning of ideas and concepts for which one has no further use, or which one sees as inadequate or wrong.(「全託」という言葉は、人が彼自身か彼の所有物をもう一人の人に捧げることを示唆しています。 しかし本当のところは、その人にとってそれ以上用いることがなかったり、その人が不適切である、間違っていると見るアイデアや概念を手放すことに近いのですね。)
 
 
心の中をまったく空にしてしまうことができなければ、少なくともここで述べたような意味での全託が必要とされるのかもしれません。このように妄想・迷妄から離れておくことは一筋縄ではいかないのが本当のところでしょう。