欲望の制限

「現地三十年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです。」(中村哲 『天、共に在り』より)
 
 昨年の12月に急死された中村哲氏のことばです。長年にわたり苦労を重ねてきた方だけに、心に伝わってくることの多い含蓄のあることばです。各人このことばはこのことばとして味わっていただきたいのですが、私にも感じるところがあり、それについて少し触れます。
 
 私はこの20年以上の間、霊性の分野でがむしゃらに努力を重ねてきたのは確かなのですが、中期的な目標を意識してきたところもあります。それはどういう目標かといえば、まずは「奉仕の機会を積極的に求める」ということです。霊的な修行には瞑想や御名を唱えること、礼拝などいろいろな種類がありますが、私は奉仕が最も簡単で手を付けやすいと思いました。世の中には意地でも(社会)奉仕には携わりたくないという霊性修行者?がいますが、私には奉仕の促しが最も魅力的だったのです。その次に目標としたのは「エゴを極力失くす」ということです。さまざまに選択に迷ったときにはエゴのない方を選ぶように心がけました。この20年近くの間に主に心がけたのはこの二つです。そして現在、もう一つ大きな課題に取り組まなくてはならないかなという思いがあります。それは「欲望を極力失くす」ということです。
 
 欲望がなくて生きていけるのかという人の意見は確かにあります。ああしたい、こうしたいという思いがなければ人生そのものが機能しないかもしれません。お腹が空いたときの食欲はどうなのかという意見もあるでしょう。一方で毛ほどの欲望も滅ぼしてしまいなさいという指針も世の中にはあります。私は「欲望を極力失くす」ことを、必要でないものに対する欲望を失くすことの意味で用いたいと思います。なのでお腹が空いたときに必要な食事を口にすることは問題になりませんし、生活必需品についても同じです。一方で私は趣味で山を歩くことがありますが、ある意味必要ないことですが、ある意味体力の維持増進に役立っていたり、純粋な心の楽しみにもなっていて、余暇を過ごすこととして限られた予算内では自分に許そうかなと思っています。何が必要か必要でないかの境界は難しくはあります。
 
 さて中村哲氏の言葉に戻ります。「私たちが己の分限を知り」とありますが、これは私にとって欲望・欲求に制限を設けることです。物質的な分限だけでなく、承認欲求などの精神的な欲求にも分限を設けていいでしょう。今後私は謙虚に自らの分限を知る努力をするつもりです。「誠実である限り」ということばもあります。これは私にとってエゴを失くすということでもあります。つまり中村哲氏のことばは、私が欲望とエゴに制限を設けるならば、神の恩寵と人のまごころは私のもとにあると理解できるわけです。このように中村哲氏のことばは素晴らしいマントラといっていいものです。
 
 これまでの50年以上にわたる人生の偏見がありますから、欲望を滅することに関してなかなか思うようにいかないこともあるでしょうが、以前にも増してこの方向で努力をしていくつもりです。
 
 現代日本人の中では今でも欲望は少ない方ではないかと思うのです。これまで10年以上にわたって大雑把ではありますが家計簿をつけてきて時間のあるときに無駄な出費をチェックしてきたのですが、無駄は確かにあるのですが、おそらくその無駄は1年に4万円くらい、1日に100円少しくらいです。これをさらに減らしていけたらと思っています。必要なものは必要なものとして使います。キーワードは「分限を知る」です。