愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

考えてもダメ 考えなくてもダメ

今日のタイトルは禅問答のようであります。ただ私は禅問答はかなり嫌いな方で、説明を聞いても単なる屁理屈に感じることが多く、多くは単なる自己満足に過ぎないと思っています。今日はそのような自己満足に陥らないようにしたいのですが、しかし多少はそうなるかもしれません。

 

考えてもダメ、考えなくてもダメは私の経験によるものです。私はいろいろ考えることの多い時期を過ごしていましたが、振り返ってみてもそれで何かがうまく行ったことはせいぜい2割位でしょう。考えるより誠実な行動のほうが問題を打開することが多かったというのが偽らざる気持ちです。考えてばかりいても、結局は自分を説得するための自己弁護に陥ってしまい、人生に道筋をつけるという思考の本質から外れてしまいます。

 

一方でまったく考えないのもダメです。まったく考えないで生きるのは、私の実感からいうとハンドルのついていない車を運転するに似て、ごく短い時間ならばそれでなんとかやり過ごせることはあっても、長い期間にわたってコツコツと着実に生きるには不向きです。遠方の目的地にたどり着くには継続した適切なハンドルさばき(考えること)は必要です。

 

頭を使うことをハンドルさばきに例えました。ハンドルさばきは体で覚えて自動的にできなければなりません。なので考えることもせず考えないこともしない頭の使い方とは、木の葉が風に揺らぐように、頭脳が状況の中で自動的に計算するような状態です。それは頭が頭だけで独立しておらず、肉体とつながった状態で肉体が環境から受ける影響に沿って意図せず働くという感じです。

 

私は実際のところ何年にもわたってそういうような自動的な頭の使い方をしています。10年以上前は意図的に考えることの多かった自分からすれば、このような頭の使い方はとても楽です。風に揺らぐ木の葉のような思考ですから、考える必要のないことについて思考することもかなり減りました。

 

 意図せず頭が働くに任せていて何らかの有用な結果が得られるのかという心配も生じそうですが、私の実感としては意図して思考するよりも生産性の高い思考ができます。(思考ができるというより、自然に結論にたどり着くといったほうがいいですね)あたかも小さなコンピュータ、人工知能が頭部にくっついている感じです。入力されたものに従った出力が得られます。思考というものは大体において入力された情報の範囲を越えた結論を出すことはありません。なので、有益な結論を出したいと思えば、それなりの入力をしなければなりません。入力した情報を編集しそれにエッセンスというか本質を肉付けして結論が得られます。
 
 入力してから編集し出力するだけなら人工知能と同じでしょう。大切なのはエッセンス・本質を肉付けすること。入力された情報はエッセンス・本質を飾り立てる見かけとして利用するだけのことです。エッセンス・本質は本来誰の内にもあるとされます。金鉱石を掘るにはある程度土を深く掘らないといけないのと同じで、真珠を取るには海の中に潜らないといけないのと同じで、そういう自己探求をしなければ内なるエッセンス・本質にたどり着けないでしょうが。
 
 思えば私がひどく考えることが多かったのは、内なる本質を見なかったからあるいはそれに気づけなかったからです。人が内にエッセンス・本質を蓄えているならば、無理に思考する必要は多分ありません。思考せずとも価値あるものはあるのですから。そうであるならば、頭脳はせいぜい自動的に働き計算する機械の役割を果たすのみです。
 
 もし考えることに執心していたり、考えずに投げやりになることが多いならば、まだ自らが有する価値に気づいてない可能性があります。少なくとも私はそういう価値の一部に気づいています。
 
 「考えてもダメ、考えなくてもダメ」。少しは納得のいく禅問答になったでしょうか?