愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

知的な領域と信仰の領域

あまりに知的な人は信仰のことが理解できない場合があると思います。信仰を簡単に表現すれば、「この世界には人間の力を越えた力が存在し、そしてその力は人間に対して悪意をもっていない。いやむしろさまざまな好ましい働きかけをしてくれているということを信じる、あるいは知る」ということです。仲間がいる方が簡単ですが、このことは特定の宗教団体に所属することがなくても、自分の内省を通して到達することができるものです。

 信仰がある人とない人の違いを次のように説明してくれた人がいました。キャンディーというものをまったく知らない人たちがキャンディーの周りに集まって、これはどのようなものであろうかと皆で話し合っています。ほとんどの人は、これはこういうものだろう、ああいうものだろうと自分の意見を主張しています。延々、何時間も、何日間も議論を続けています。しかしあるとき一人の人がそれを手にとって口の中に入れました。そして一言「甘い」と言いました。議論はそれでけりがつきました。千万の議論は一つの体験に劣るのです。つまりこのように、知的な人の信仰に関する意見のほとんどは意味のないものなのです。信仰を生きる人は、それを通して甘さを味わっているのです。

 神はさまざまな宗教においてさまざまに記述されています。そして、そのすべての神は甘いものです。チョコレート、おはぎ、ケーキ、クッキー等々甘いものはたくさんありますが、すべての甘さは砂糖から来ます。それと同じように、信仰はすべて甘さへとたどり着きます。

 信仰とはせわしい心の状態や、苦悩に満ちた表情ではありません。人が宗教的になった徴は、その人の心が明るくなったことだと言われています。確かに、泳げない人がプールに飛び込むとき、最初は心配や不安があるかもしれませんが、泳げるようになると泳ぎが楽しくなります。畳の上の水練という言葉がありますが、知的な人は泳げるようになってから水に飛び込もうとするものです。

 この世に砂糖がなければ、甘いものを楽しむことができず、食生活がずっと味気ないものになるように、もし信仰の喜びを知らないまま人生を歩むとすれば、人生とはずっと味気ないものです。必要なのは、信仰の喜びを生きている善き師です。そのような師匠に出会うことができれば、私たちは幸せです。