愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

ギーター第6章

 ギーター第1章について書いたのは1年以上前です。久しぶりにギータについて触れたくなりました。今日は第6章についてです。第6章は瞑想のヨーガ(道)と名付けられています。私はインド哲学に関して専門的な訓練を受けてないので、あくまでもギーターの詩節を読んでそれについて思うことを記すのみです。そして瞑想について語るというよりも、その中の一つの詩節を取り上げるだけです。


61節)

行為の結果にこだわらず、なすべき行為をする人は、放擲者でありヨーギンである。単に祭火を設けず、行為をしないものは、そうではない。(岩波文庫

Hewho performs his duty without depending on the fruits of action, heis a Sannyasi(a true renouncer), and a Yogi(a true worker), not hewho is without sacrificial fire or without action.Paramananda訳)


 大雑把に岩波文庫の日本語はパラマーナンダの英訳を日本語になおしたものといえますが、私は日本語と英語から受ける印象がかなり異なります。


 「行為を行う、行為」に対応する英語にperform,actionという単語が使われています。performという語からもactionという語からも「演じる」というニュアンスが感じられます。一方日本語の「行為を行う」や「行為」という語からは演劇を思い起こすことはありません。

 また日本語訳では「結果にこだわらず」とありますが、英訳ではwithoutdepending onという語が用いられます。このニュアンスの違いも大きいです。

 さらに日本語には注はありませんが、英訳にはSannyasiatrue renouncer(真に手放す、放棄する者)、Yogi=atrueworker(真の働き手)という注があります。日本語の放擲者やヨーギンからどういう人をイメージするかは人によるかもしれませんが、日本語訳よりは英訳のほうがわかりやすいのは確かです。


 瞑想のヨーガを述べる章の一番最初が上の詩節です。私は定期的に瞑想をしていますが、私よりも本腰を入れて瞑想に取り組んでいる人は多くいて、しかしながら、瞑想はそれだけを長くしていると「飽きる」し途中から進歩が感じられなくなると聞きました。その瞑想を深めるために心がけるといい取り組みの一つが奉仕だとされます。奉仕とは、他者の苦しみを自らの苦しみと感じて、その他者の苦しみを取り除く自発的で行為の結果を求めないものとされますが、61節に記されているのが、奉仕をする際に気をつけるべき心がけとなります。特に奉仕とされる行為をしなくとも、61節にあるような態度で日々行為を行うことができるならば、それは深い瞑想を助けます。これは私の限られた実感からもいえることです。瞑想を始めて間もないころは心の中が混乱しているともいえる状態ですが、あれやこれやの行為の結果を気にしているがゆえの混乱でもあります。奉仕が満足にできるようになると瞑想は確かに安定します。


 withoutdepending on the fruits of actionとは、行為の果実(fruitsof action)に頼らない(withoutdependingon)ことです。私の見解では、行為の結果を気にしようとすまいと、何らかの行為の結果はあるのですが、それに依存しない生き方はなかなかできることではありません。会社で働けば給与を受け取り、それをもとに生活をやりくりする計画を立てるのは自然なことです。自分の思う通りの結果かどうかはわからないものの、行為の結果自体は返ってくるもので、しかし人間のなすべきことは行為とその結果のサイクルを享受することというよりも、むしろひたすら義務を果たすことであるとギータは述べます。そのことがwithoutdepending onという語に感じられます。


 perform,actに関連しパフォーマンスやアクター(俳優)などの言葉がありますが、ギータの英語訳のニュアンスから推し量るに、私たちの行為の一つ一つは演じられるものです。私は小中学生のころだけでなく大人になってからも少しばかり芝居に参加したことがあります。ヘボ役者だったので、単に記憶していたセリフを何となく場に合わせた体の動きの中で口にするだけでした。セリフに感情を込めたようであっても、決して上手だったとはいえません。

 それに対して日常生活を芝居と見た場合どうでしょうか? 感情は遥かに生き生きとしています。体の動きも他の人たちと調和していると思うことはしばしばです。人間関係に長らく悩んできた私ですが、50近くになって人生が何とはなしに芝居がかってきました。心にほとんど影がなく演じられるので自分でも後腐れがありません。おもしろいものです。上手に演じられるようになるというのと、行為の結果を気にしないというのはもしかしたら関係があるのかもしれません。


 6章では中盤以降に瞑想の技法やその境地などが記されています。まったく瞑想の技法を知らない人がギータ6章のみを参考にしてもいいのかもしれませんが、光明瞑想を習慣にしている私から見て、かなりレベルの高いことが書かれています。ギータによれば瞑想は自己の清浄(purification)のために行うもののようです。


 6章だけでも今日ここに書いた何十倍あるいは何百倍ものことが触れられていいのでしょうが、私の能力の不足により多くを語ることができません。各人がギータを自己研鑽の書として参考にしながら歩まれれば、また何かご自身の気づきが得られることと思います。