ハートと頭(マインド)2

 日本語では心という一つの言葉で表されるけれども、英語ではheart(ハート)とmind(マインド)という二つの言葉がそれに対応しています。この二つの関係については一度書いたことがあるのですが、今日もそれに関していくつかのことを書き加えたいと思います。

 前回(4年ほど前)にはハートとマインドの関係を磁場と電場という比喩を使って表現しましたが、次のようにもたとえられるのではないかと思います。つまり、パソコンにたとえると、ハートはOSのようなもので、マインドはOS上で機能する諸ソフトのようなものだと。OSが起動していないうちは、諸ソフトは動きません。それと同じように、ハートが”起動”していなければ、頭脳(マインド)は適切に働かないのではないかということです。

 頭脳(マインド)が適切に働かないとは、たとえば、思考が堂々巡りのような感じになって何日も何ヶ月も結論の出ないまま判断できないような状態のことです。こういう人はおそらく、OS=ハートが起動していないのです。ではハートが起動するとはどういうことでしょうか? それはハートを開くということだと思います。心を開くといったほうがわかりやすいでしょうか?

 他者に対して、とくにネガティブな思いが湧いて仕方ない場合、その相手に対して心が開いていない場合が結構あって、つまり相手の存在をそもそもの最初から受け入れていないのです。相手の存在を受け入れていないのに、相手に対して肯定的な思いが湧いてくることはありません。対人関係だけでなく、社会や自分が置かれている環境などについても同じことがいえます。ハート(心)を開いた場合に初めてその対象に対して適切な思考が可能になるはずなのです。

 一方マインドとハートは、日本語では同じ心という言葉で表されるように、そもそもまったく別物ではないという意見もあります。一つの存在のある一面がハートであって、別の一面がマインドではないかという考えです。

 話は変わって、今年の東京大学の入学式での上野千鶴子氏の祝辞が話題になっています。私は簡単に目を通したのですが、ごく当たり前のことが述べられているように思えました。その中に、知を生み出す知=メタ知識を大学で身に付けてくださいと述べていらっしゃいました。この知を生み出す知=メタ知識とは何でしょうか? それを身につけていれば、知を生み出すことのできるもの。これは単に概念を操作して概念から概念を生み出すことではありません。そうではなくて新たな第一義的な知見を生み出す知のことです。

 私は思うに、この知を生み出す知とは、真っ白で濁りなく、純粋で単純な心のことだと思います。ここで心とは、ハートとマインドが調和して働いている状態のことです。真っ白な紙には何が書かれても、何が書かれたかがわかります。同じく、まっさらな心は知覚したものをそのままの形で偏見なく理解できます。正しく理解できたならば、それに対して何らかの見解を述べたり加えたりすることができるでしょう。しかしすでにさまざまなものが書かれている紙の上に何かを書き加えると、新たに書き加えられたものが何なのか判別しません。つまり汚れた心が何かを受け取ったとしても、その受け取ったものが何なのか容易に理解できないのです。

 もちろん専門的な知を生み出すためには、実験の技術や資料の分析の仕方などを身につける必要がありますが、それはテクニカル(技術的)なことです。テクニカルな訓練と純粋な心があって、新たな知見を生み出すことができます。専門的な知でなくとも、普通の人が普段の生活の中で新たな思考=知を求める行為をするには、清らかな心が不可欠です。そしてそれだけで十分なことは多々あります。

 心(ハートとマインドの複合体)を良い状態に保つことは、人間に計り知れないものをもたらしてくれるでしょうから、普段から心を汚さないためにも、悪いものを見ずよいものを見る、悪いものを聞かずよいものを聞く、悪いことをせずよいことをする、…。このことを心がけるのが大切に思います。