答えとしてのダルマ

 最近おもしろい言葉に出会いましたので、それに触発されたところを書きたいと思います。


 「この世界は幻想である。しかし幻想であっても、真摯に向き合わなくてはならない。本当はこの世界にいない状態でありながらも、同時にこの世に生きる方法を見出すことが、我々に課せられた務めなのである。」(オルダス・ハクスリー


 インドではこの世はミティア(真実と非真実の混じり合ったもの)とされます。インド人の見方によれば、この世は真実ではありません。引用した言葉にあるように、幻想といっていいでしょう。幻想ですが、私たちがそれらに意味を与え、あたかも真実であるかのように思い込んでいるだけ、結局のところ世界とはそういうものです。またマーヤー(幻、幻想)はこれに近いインドの用語です。


 この世が幻であると、私はこれまでもしばしば聞いてきたことですが、私が上記の言葉で惹かれたのは、「私たちがこの世界にいない状態である」ということです。つまり私たちはこの世に所属していないということです。私は男あるいは女である、私は家族の一員である、私は会社の社員である、私は何々国の国民である、私は動物である、私は人類の一員である。これらはすべて自らの所属を表す言葉ですが、私たちがこの世界に所属していないのならば、私たちが特定の家族や国に属していると主張することはなおさらできないでしょう。ならば私たちは何に属しているのか? 今はこれに触れないでおきます。


 誰もが暗黙の前提として承知していることですが、私たちは世界に取り囲まれて生きています。私は幼い頃、それが不思議でなりませんでした。家にいて窓から外を眺めながら、自分がなぜそこ(ここ)にいるのかわかりませんでした。そこが自分の家であるのはわかってはいても、実際のところ、ここはどこなのだろうという思いがありました。そして幼いその頃から今に至るまで、どこだか本当にはわからない場所で一生懸命生きてきたのは確かです。いろいろな経験を積んできましたが、振り返ってみれば、50年間世界に揉まれ続けただけだという気持ちがあります。おかげで少しは角が取れたのですが。

 この世界に属しておらず、しかしこの世界に放り出された状態で生きるとはどういうことなのか? これに関してもインドにはふさわしい言葉(答え)があります。ダルマです。単純化していえば、与えられた役割にふさわしく生きることです。なぜここにいるのかわからない中で人は何らかの役割をあてがわれているものです。先に述べた、男であるとか女であるとか、ある家族の一員であるとか、ある職場の一員であるとかなどです。そのあてがわれた役割をあたかもお芝居として上手に演じきること、これがダルマですが、人間に求められているのは結局これだけなのかもしれません。


 人生はゲームのようなものです。お芝居もゲームです。上手に演じ、そして幸せでいればいいのです。


 役割には楽なものもあるでしょう。幸せな配偶者とともに過ごす役割もあれば、裕福に過ごす役割もあります。一方でなぜだかわかりませんが、病を得てそれと付き合わざるを得ないこともありますし、自分が必ずしも邪悪であったわけではないのにものの弾みで犯罪を犯し、刑務所で過ごすような役割もあります。人付き合いの多い役回りもあれば、一人過ごすことの多い役回りもあります。ときには厄介な揉め事に巻き込まれることもあるでしょう。望ましい役割がある一方で誰もがやりたくないような役割があります。しかし役割という点では、おそらくまったく優劣がありません。どれもが等しい価値をもちます。


 私たちはこの世界に所属していないのです。しかしなぜかこの世に送られてきますが、私たちのなすことは、運命や周囲の状況に対応して何やかんやと振る舞い切ることでしょう。私はもうあまり難しいことを考えるのが嫌になってきたので、できるだけシンプルにしか考えれません。人のなすべきこととは、心の促しに従ったり、徳に導かれたり、相互関係の中で他者とふさわしい距離を保ちながらダルマを果たすこと。おそらくこれが人生の答えなのではないかと思っています。