老年期の心

 新聞を読んでいていくつかの記事が気になりました。一つは昨年亡くなられた日野原先生の記事、一つは東日本大震災に被災して自殺した方の記事です。そしてもう一つは「老年的超越」に関する記事です。
 
 日野原重明先生が103歳のときに書いたコラムの中で、先生は、『今なお「もっと生きたい」と願い、「日本最高齢者が116歳なら、私もそれくらい。いや、それ以上!」と夢なようなことを望んでいる。生とは不思議なものです。』(朝日新聞be2月17日)と記しています。
 
 私は日野原先生の半分も生きていない身で、当然なのかもしれませんが、やはりできるなら長生きしたいと考えており、しかし80歳くらいを越えればその心境は変わるかもしれないとずっと思っていたのですが、日野原先生の文章を読むと、必ずしもそうではなく、100歳を越えるまで健康に生き続けてもなおもっと生きたいという意欲が強いのだと知りました。おそらく、数週前のこのブログで書いたように、何かやり残したことがあると死ぬのが惜しく感じるのではないかと思ったのです。それは何歳になっても同じなのだと。
 
 もう一つの記事は、東日本大震災原発事故で避難を強いられた102歳の男性が自殺したことに関する訴訟の記事です。100歳を越えても苦悩があれば死んでしまいたいと思う人の気持ちがいたたまれなく感じました。その男性は一人暮らしではなかったようですが、一人心の中に抱える思いがあったのでしょう。
 
 100歳を越えても、若い人や中年の人と変わることのない人間の姿を上の二つの記事を読んで改めて確認したのです。
 
 一方、これも最近の記事なのですが「老年的超越」というものを扱った記事がありました。これはどういうものかというと、90歳を越えるほどの高齢になるとそれ以前とは違う「幸せ感」を抱くようになる人が少なくないようで、そういう幸せ感を抱く人の心の中はどのようなものかということに触れたものです。高齢者独特の幸福感は、一人でいることを悪いと思わなかったり、悔やむことがなかったり、よいことも悪いこともあまり考えなかったり、感謝や生ききれたという感覚があるようです。必ずしも高齢者すべてではなく、しかしこういう人がまあいるようです。(朝日新聞2月7日)
 
 超長寿社会が来て、これからも中高年以上の人たちの心の中がより明らかになることが多いと思うのですが、私はそれらの記事を読むとかなり参考になることがあります。いや、私だけではないはず。2000年以降に生まれた人の半分は100歳まで生きるという予測もあるくらいですから、多くの人がもっと高齢者のありように関心をもっていいのではないかと思っています。