生病老死

 御釈迦様がとりつかれたのは苦の問題です。生病老死の問題。どうすればそれを避けることができるかという問題への解決を求めて探求の道に入りました。

 私は生きること自体が苦だとはあまり感じません。多少面倒くさいことはありますが。しかし病苦はかなり味わった方です。老の苦はまだ想像することしかできませんが、生活能力が落ちたり、精神機能が落ちてくると人生に影がさしてくるかもしれません。死そのものに対する恐れはほとんどありませんが、ただ何か遣り残したことがあると感じているうちは死にたくないなと思います。

 御釈迦様はお城を飛び出して探求の道を歩いているときに、(あるいは悟りを開いたあとかもしれませんが)父親から「王族の家系から物乞いが生まれた」といわれたといいます。お城に帰ってくるよう諭されはしましたが、お城の生活に戻っても生病老死の問題が解決することがないとわかっていたので戻ることはありませんでした。

 私は生きること自体は苦ではないのですが、日々あれをしておかなくてはいけないこれをしておかなくてはいけないと振り回されたり、人の小言を聞いたりと、何というかノミに悩まされるネコの心境になることはあります。そういう状況を避けることはできないと思っています。
 病苦は避けることができるならば避けたいですね。病に苦しんだことのない人は、私から見れば幸せだと思います。
 精神の成熟を伴いはしますが、老いもなければないに越したことはありません。
 死は誰もが避けることができません。

 これらの苦から解放されるにはどうしたらいいのでしょうか?
 御釈迦様の悟りの内容については私はうかがい知れないのですが、一つ思うのは、生病老死は肉体に関することなので、肉体への執着が強いと苦痛も大きいのかなと思います。人間は肉体ではない、肉体は衣服に過ぎないというのが真実でしょうが、おそらく、真の自己への認識を育むことでしか苦を避けることはできません。

 ここで苦は英語でsufferingといいます。pain(痛み)ではありません。
 たとえばこけて膝をすりむいたとしましょう。血が出ると痛いです。それはpainです。しかし、痛いからと泣き出す人もいれば、少しくらい痛くても気持ちを取り乱さずに冷静でいられる人もいます。このように何か痛みがあるときに取り乱すような心の動揺とそれに伴う苦の感覚がsufferingです。御釈迦様が求めたのはこのsufferingの除去。

 御釈迦様はそれは心の問題だと見切ったのです。であるがゆえに、多くの人がいうように仏教は心理学の要素がかなりあります。

 心の領域は複雑で一筋縄ではいきません。何万という学者がそれについて研究しています。心に関する探究を一人で決着をつけただけでも御釈迦様の偉大さがわかるというものです。