中道

 お釈迦様の御教えの一つに中道があります。知っている方が多いでしょうが、御釈迦様は王族の出で、若いころから生活に困ることのない、おそらく贅沢な暮らしをしてこられました。そして成人し結婚した後に、世の中を視察したときに、病人、老人、死人を目にし、苦悶のうちに探求の道に入りました。お城を脱出し、さまざまな師を求めて、さまざまな修行を行う日々。
 
 御釈迦様は後に真理に目覚めましたが、その目覚めは、お城での贅沢な暮らしからでもなく、苦行・苦悶ともいえる時間の中からでもなく、そういう極端な状況から離れた、バランスの取れた「真ん中」の道を歩くときに得られると説きました。それが中道です。
 
 思うに、お城での生活も苦行といえる日々もお釈迦様の人生を構成する欠かせない要素であって、それらは無視できないのですが、御釈迦様は、そういう生活をわざわざ求めなくても人生の目的に向けて人は歩むことができることを言いたかったのでしょう。
 
 神に関することは、すべて自然なプロセスによって得られると聞きます。つまり神秘的な儀式や超越的な能力、極端な努力が必要とされるのではなく、日々の礼拝の積み重ね、日々の義務の積み重ね、悪い性質を倦むことなく時間をかけて取り除いていくこと、そのようなことで十分なはず。そういういうことに費やされる時間こそが大切です。
 
 話は少し変わって、親鸞聖人は自らのことを非僧非俗と呼ばれました。僧つまり宗教界の人間でもなく、俗つまり世俗の人間でもない。親鸞聖人のおかれた立場は独特ではありますが、中道の一つの姿かなと思います。
 
 私は宗教界の人間ではないので非僧です。自らの活動にできる限り霊的な意味を持たそうと努力している点では、世俗の中で生きつつも、少しばかりは非俗かもしれません。真宗の人間ですので、御釈迦様からだけでなく、親鸞聖人からも学びたいのです。