愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

知性と知能

 知性と知能は似た言葉です。ただそれぞれの言葉を人はいろいろな意味で用いているかもしれません。私には私の語法というか語感があって、以下のように使い分けています。

 「知能」…簡単に言えば頭を使うことです。ある種の計算のようなものかもしれません。計算といっても数字の計算だけでなく、さまざまな情報をもとにさまざまに頭を回転させて自分なりの結論を導くことです。人工知能(AI)は人間に比べて何億、何兆倍もの計算を繰り返す機械とされますが、原理的には人工知能に似たものでしょう。

 「知性」…独特な考え方かもしれませんが、わかりやすくいえば私にとって知性とは心(ハート)を開くことです。私は(ここで何度か取り上げた)光明瞑想を習慣にしているので、心(ハート)を開くことがどういうことが自明なのですが、他者や外界と自分を隔てる壁を取り払うことといえるかもしれません。

 人によっては、知性という言葉を私が知能と言う言葉で定義した意味で用いる人もいるでしょう。しかし私はこの二つをきちんと区別したいと思っています。

 この点が大切なのですが、心(ハート)を開きさえすれば心(ハート)それ自体が探求を始めます。それは頭を使うというより、心を開いて身を世界にさらしたときに、心(ハート)が世界を感覚しそれを吟味するという感覚です。それは頭脳の枠組みを越えた探求です。世界を体験してそれを受容しているともいえるかもしれません。

 私は夜寝る前に一人で静かな時間を過ごすのが好きなのですが、そういう一人の時間に一日を振り返ると、心(ハート)が一日の間に受容したものを対象に今度は頭が思考しはじめます。そしてその作業がその日の経験を整理し、必要なものを記憶の倉庫に保存しているように思います。また人生についての新しい気づきを得られたと感じる日もあります。

 心(ハート)を開いたならば、すばらしい体験をすると同時に傷つくような体験をすることもあります。それらすべてが学びです。心(ハート)を広げることは自らを拡大することであり、これを避けていてはいつまでも人間としての成長がないように思います。

 人間と動物を区別するのは知性だという人もいますが、心(ハート)を開かないで長年過ごした人はおそらく晩年になって人生に後悔することが多いのではないでしょうか? そういう人は往々にして動物的な老後を送っていそうです。

 私は以上のように知性をとらえており、ですので、いくら知能が高くて弁が立つ人でも、心の狭い人を賢いと感じることはありません。相手が心の狭い人かどうかは少しの間話をしてみるとわかります。心の狭い人とは心の広い人と話すときに比べて気持ちが通じにくいものです。