文化の目的=完璧

 2ヵ月半前に書いた記事「ただのただ」に少し重なる話を最近見かけました。ある方のメールマガジンにあった話です。

 そのメールマガジンに、かつてオリンピックで金メダルを取った方の話が載っていました。その元オリンピック選手はどのような気持ちで闘いの舞台に立つのかと聞かれて、「準備がすべて。勝ち負けすら意識しない無心の境地になるくらいに準備できるかどうかが勝負」と答えたそうです。

 私は完璧ということについて時々考えるのですが、完璧を目指す上でよく聞くアドバイスが、"Practice makes perfect."(練習が完全をもたらす)です。繰り返し繰り返し考えながら練習をこなすことで何事も上達する、ということなのですが、どこまで練習すればいいかというと、考えなくてもできるようになるまでです。

 上のオリンピック選手に限らず、スポーツ選手は同じようなことを言っています。野球のダルビッシュ投手も、「考えながら練習をすることで上達するといいます」多分相撲の白鵬も同じようなことを言うでしょう。

 今時間のあるときに英語の勉強をすることがあるのですが、同時通訳の神様といわれていた国広先生は精読して意味のわかる英文を何百回と音読して体に覚えこませてしまうのを勧めています。また、さまざまな仕事においても、本当に熟達したものは、体で覚えてルーチンになっているはずです。

 無心になるまで練習・訓練を重ねたならば、結局のところその人は多分物事において結果にこだわらなくなるのではないかと思うのですが、同時に恐怖心や不安からも解放されるという気がします。どうでしょうか?

 「ただのただ」にも書きましたが、その人は一つの記号になったのでしょう。

 「文化の目的は完璧である」と聞きます。文化とは、鉄くずが精巧な時計に生まれ変わること。綿花が美しい布に生まれ変わること。人間が精錬の過程を経て無心となり、一つの記号になることが、文化の目的のように最近感じるのです。