神を祈る

 世界一過酷なヨットレース「ヴァンデ・グローブ」にアジア人として初参戦する海洋冒険家の白石康次郎氏の記事(←こちら)を読んでいたら、その中に「神を祈る」という言葉が出てきました。おもしろい表現だと思いました。

 普通私たちは神に祈る、仏に祈るといい、それは「これをお願いします、あれをお願いします」という祈りなのですが、白石氏は神を祈るという言葉を「神様と同じ行動をすれば同じ結果が得られると。仏様って、いっつも笑顔じゃない。いつも笑顔で人に優しく、どんな時もね。どんな苦しいときもつらいときも、あのように、微笑をたたえられるような人間になるための修行でもあるんだよね。そうすれば、うまくいくんじゃないかとそう僕は解釈しているの。」と受け取ったそうです。
 すばらしい受け取り方だと感心しました。

 まさに白石氏のいうとおりだと思うのです。私の師は「私は神ですが、あなた方も神です。私はそのことを知っていますが、あなた方はそのことを知りません」といいます。さまざまな文献に目を通しても、人間には仏性、神性が備わっていると書いています。しかしそのことに思いを向けず、感覚と欲望に従う人は多くいます。

 神を祈るとは、聖典で述べられているように、神と呼ばれるにふさわしく生きることができるようにとの祈り。

 人間がどういう意味で神なのか、仏なのかということは探求するに値します。

 インドにはアヴァター=神の化身という信仰があります。この宇宙を造り支配する神様が人間の姿を取ってこの地上に降臨するという信仰です。そのアヴァターはプールナアヴァターとされます。プールナとは完全なという意味ですが、物を物質化したり、自然現象や状況を完全にコントロールする力を備えた化身のことです。
 一方人間も神の化身とされますが、多分ここで人間が神であるとは、アムシャアヴァターのことをさしていると思います。アムシャとは部分的なという意味。本質として人間は神なのですが、プールナアヴァターほどの力を備えていないということです。完全な力を備えていないアムシャアヴァター=人間はお互いを補い合うものとして協力し合うことが大切になります。
 プールナアヴァターを完全な存在とみなしたとき、アムシャアヴァターはある意味障害者のような存在です。このような意味で、健康や能力を備えた人も障害者から多くを学ぶことができるというのは真実です。

 私は神に祈ることを習慣としてはいますが、多くは「あれを望んでいます、これを望んでいます」という類のものです。何かが欠けた存在であるので、それはそれでいいと思うのですが、「神を祈る」こともこれからは大切にするつもりでいます。