愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

恐れ

 多分(ほとんど)すべての人に何らかの恐れがあるのではないかと思います。しかし身の回りのあらゆることを恐れていては生活できません。たとえば、ふと自分がいつかは死ぬ存在であると気づいたとき、それを気にしすぎると生活できなくなってしまいます。

 人生、自分の思いもよらぬことが大小さまざま起こるので、身構えてしまいそうになることがかつてはあったのですが、ある種の諦念というか、起こるべくして起こることを少しずつ受け入れることができるようになってきました。自分が予想していることとまるっきり異なることが起こると、人は時に恐怖を抱きますが、これは人間にとって自然なことです。

 人間の生存欲求には四つあり、ひとつは食欲、ひとつは睡眠欲、ひとつは性欲、そしてもう一つが恐怖(安全への欲求)です。恐怖は基本的に安全を確保したいという欲求に根ざしています。世に警察組織があるのも、国を守るために軍備を備えているのもそのためでしょう。

 ヴェーダには恐怖について次のようにあります。
 「人の魂が恐怖のない状態でいるのは、ただ彼が目に見えない、エゴがなく、言葉で語ることができず、それを支えるもののない実在の上に、しっかりとした平和な基盤をもつ時のみです。そのような状態にほんの小さな隙間が生じたときはいつでも、恐怖が生じます。であるがゆえに、賢者でさえ彼が思慮深さを欠いたときは恐怖を感じるのです。
 その恐怖から風(の神)が生じ、太陽(の神)が昇り、火(の神)、インドラ(神)、死(の神)が生じました」

 (人の)恐怖ゆえに神々は生じたのかもしれません。

 ありとあらゆることを恐れるのではなく、もし真に恐れるものがあるとするならば、それは罪を犯すことでしょう。罪を犯すとは、刑法に書かれていることを犯すことだけを意味するのではありません。この世界のすべては一つなのですが、その一つであることを忘れさせたり、一つであることを疎外するような行為のこととされます。

 罪を犯すことを恐れてさえいれば、多分人生においてそれ以外の恐怖に襲われることは少しずつ減ってきます。

 上にあげたヴェーダの言葉にもあるように、実在を忘れたとき、その実在を意識することをあえて神への愛と表現するならば、神への愛を失ったときに、恐怖は心の隙をついてきます。

 「神への愛」と「罪への恐れ」は人間が落ち着きをもって社会で生活していくうえで大切な特質です。