愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

日本における思考

 日本に住んでいるのに、あるいは日本から出ることがほとんどないがゆえにかもしれませんが、日本という国はどういう国なのだろうかと時に思案してきました。そして今日は日本において何が考えられてきたか、思うところを書いてみます。

 著者と書名を忘れたのですが、ある方が西洋においては善悪について長年人々が考え続けてきた。そしてインドにおいては輪廻やカルマについて人々が考え続けてきたと、述べていました。あまり単純化しぎるはよくはありませんが、傾向としてそういうところはあるように思います。

 これを読んだときに、日本人は長い歴史の中で結局のところ何について思考をめぐらせてきたのだろうという疑問が生じました。日本人は古来文学が好きなような気がしているのですが、思索・思惟という点では、私の心に最初に思い浮かんだのは、「全託」でした。個人の力を超えた力。人間の運命をもてあそぶようにも見える自然の力や社会の力。そういうものにまったくもって抗(あらが)えないときにどう生きればいいのか。そこで出てきたのがすべてを委ねる生き方あるいは全託というもののような気がするのです。

 無常観を扱ったエッセイや旅行記、仏僧の著書はたくさんあります。「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」この世に常なるものはない、そういう感覚をもつ人が多い中で、時に自らの意志を最小化する生き方というものが、どの程度かはわかりませんが、日本社会の底流の一つにあったといえそうです。

 私は真宗門徒ですので、阿弥陀仏という名号を唱え、阿弥陀仏に人生を委ねた人々の記録を多く読んできました。他力門の浄土系でなくとも、日本はしばしば大きな自然災害に見舞われ、人間にはどうにも対処のしようのない状況に多くの人がおかれてきました。そういうなかで、自分の考えにこだわるよりも、状況に適応する生き方をする人は結構いるように思うのです。

 私は人並みに意志の強い人間ではありますが、長年生きているとどうしようもない運命というかそういうものがあることを悟ってきます。意志を働かせる場合でも、状況に対して戦うというよりは、与えられた状況の中でその状況を活用しながらどういうふうに生きるかと考えるようになってきました。

 多分日本人にはこういう思考のできる人はまあまあいそうです。思うに、こういう思考はもしかしたら他文化の人の目には独特なものなのではないかという気がします。

 海そのものを作り出すというような狂気にも似たようなことは考えず、ただそこに浮かんで何かを頼りに船を進めていく。少なくとも私にはそういうところがあります。