わざわざ変わったことを考えなくてもいいのですが、人は時間をもてあましてあれこれ夢想しているようなときに、ちょっとしたアイデア、ひらめきを与えられます。そしてそこから何かが生まれることもしばしばでしょう。ある人が暇をもてあまし、何かを考え出し、今までになかったものを生み出していった。それを人に伝えたり、その新しいことに興味を持った人たちが集まり、さらに何かを生み出していく、それが学校の始まりであったといわれます。生活や気持ちに余裕のある人が何か新しいものを生み出すというのは一面の真実ではあります。
日本の中世、兼好法師も言っています。
「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆく由なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。」
兼好法師は時間をもてあまし、その中で心に浮かんでくることを書いていくことで自分の世界を開いていきました。最近徒然草を高校生のとき以来手にしたのですが、いくつか心に訴えかけてくる言葉に出会い、700年前に日本列島に生きた先人と会話をする機会をもてて、余裕=暇のようなものの価値を少し見直したのです。
余裕=暇がある人が誰でも有意義なものを生み出せるとは限らないのですが、時に何かが生まれうることは確かです。
ビル=ゲイツもウィンドウズが全盛のころ(今でもパソコンの多くはウィンドウズですが)、誰を恐れるかと聞かれ、車のガレージのようなところで何かに必死になっている若者たちを恐れると答えたと聞きます。そして確かにそういう場からグーグルなどの新興企業が生まれ、インターネット世界の勢力地図が変わってきたことを私たちは知っています。
ある人を突き動かす衝動=意志と暇=時間、そして適切な環境があれば、この2016年においても数十年後に世界に影響を及ぼす何かが生まれうるでしょう。
遊びと学問は結構関連の深いものではないでしょうか? 学問でなくとも、一日のうちに精神を自由に遊ばせる時間を少しでも確保できれば、生活そのものもより豊かになりうると思うのです。自由な精神はとても貴重ですね。