愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

本の読み方

 菅谷明子さんというジャーナリストの方が本の読み方に関しておもしろいことを言っていました。
 「日本の読書は本が『正解』で、それをいかに『吸収』するか的なのが、米国の娘達は本はあくまで叩き台で、そこから自分が何を考え、同じものでも他者はいかに異なって受け取るのかを話し合い、そのプロセスを経て、最終的に自分はそのトピックに関してどう行動するのか、を問われるのが興味深い。」

 菅谷さんがおっしゃるように、私はかつて本に書いてあることは「正解」あるいはそれに近いものというふうに受け取めることが多く、そこから何かを学ぼうという姿勢が強かったように記憶しています。国語教育の影響かもしれませんが、日本人の多くはそういうところがあるような気がします。

 それに対し、以前インドにいる知人から本の読み方に関して大きな示唆を受けたことがあります。彼が言うには、「本をたくさん読む必要はありません。1冊でもそこに含まれている価値を実践すればいいのです」とのことでした。彼は価値を大切にする方で、たくさん本を読んで頭を混乱させる必要はなく、日々の生活に取り入れることのできる価値(真理の実践に導くもの、正義の実践に導くもの、平和の実践に導くものなどなど)を実践して、生活に役立てることこそが本当に大切なことですと教えてくれたのです。

 その言葉を聞いて以来、私は多くの本を読むことがなくなりました。何かを探し求めるかのように本を手にしていたのですが、多過ぎる本は確かに知性を混乱させます。台所に食料があふれていることはその人の体の健康に何か問題があるかもしれないことを示唆しているように、本棚に多すぎる本がある人の知性には何か問題があるかもしれないという人もいます。世の中には何万冊もの蔵書を抱えている人がいます。

 私は読む本が減りましたが、蔵書もだいぶ処分しました。それでも、実用書や辞書を含め、まだ200冊ほど本があります。

 菅谷さんの話に戻りますが、アメリカ人の一部の人が創造的であることの理由は、本はあくまで叩き台で、そこから何を自分は組み立てていくかのかという本の読み方にもあるように感じました。ニュートン(だったと思いますが)は「自分は巨人たちの肩の上に立っている」と言っていましたが、これまでの多くの知見を獲得してきた巨人たちの成果の上に、自分は何かを作り出すというのがアメリカの気風なのでしょう。これはこれでひとつの本の読み方だと思います。こういう読み方も大切だと思います。

 日本とインドとアメリカ、三者三様の本の読み方がありますが、状況に応じて読み方も使い分けるといいかもしれません。