愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

Help ever, hurt never

 最近今までに気づくことのなかったことに気づくようになりました。いろいろな話が自分の中で一つにまとまってきました。助けることと傷つけないことに関してです。

 今の世の中というのは不思議なもので、体に悪い食べ物を一方で作っておきながら、健康のために医療の研究が活発に進められています。平和のための取り組みが熱心に行われている一方で軍事産業が発達しています。話に聞くと、食品と医療の両方に投資したり、平和活動と軍事産業の両方にお金を出している人もいると思います。まったくの無駄ではないかとふと思ってしまいます。

 私は人を助けることに関心がありますが、どうすれば適切に人を助けることができるのかといろいろ悩んできました。昔は人を傷つけないことは当たり前のことで何もしていないのと同じではないかと感じることがあったのですが、最近は人を傷つけないことは立派な他者への奉仕なのだとの気づきが得られるようになりました。

 誰か助けを必要としている人がいるということは、多分その人は誰かから何らかの形で傷つけられたということなのですが、最初から人を傷つける行為がなければ、奉仕によって人を助け、その人を普通の状態に戻す必要もないわけです。

 私の欠点ですが、何度人に話しても相手がまったく私のことを無視してしまうとき、本来はその人を助けなければならないのに、その相手に腹を立ててしまうことがたまにあります。それでは奉仕をする資格がありません。奉仕をするときは、相手がどんな態度を取ろうとも、愛、愛、愛の態度で接し続けなくてはなりません。私は忍耐強い方だと思いますが、それでもしばしば間違いを犯してしまいます。特に子どもに接する時です。

 昔インドに腕白坊主たちのしつけを頼まれた聖者がいたそうです。その腕白坊主たちは、どんな大人たちが言い聞かせてもいうことを聞きませんでした。その子どもたちをどのようにしつけるか見ていると、聖者はひたすら道徳的価値を含んだ物語を語り続けました。子どもたちはまったくその話を聞くつもりはありません。聖者の周りで好き勝手に振舞っています。

 しかし、子どもたちの傍若無人な振る舞いにも関わらず、聖者は物語を語り続けました。そうして何ヶ月も経った時に、子どもたちは自分たちの思うとおりに振舞うことに飽きてきて、次第に聖者の話を聞くようになりました。聖者の話をおもしろがるようになり、そして次第に子どもたちは立派な徳を身につけるようになったそうです。

 叱らずにあるいは相手を非難せずに相手に愛を注ぎ続けること。相手が変容するとは限らないのに、相手に奉仕し続けること。つい手早く結果を求めてしまいがちな私には、そういう尊い態度をとり続けることのできる人は憧れの的です。そういう人に私もなりたいと思います。

 相手を決して傷つけず(非難せず)、助け続けること。これができる人は聖者でしょう。