意志を育む

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Rosario Ibanez Gil Flood

 人生いろいろ迷うことが多く、それが辛かった時期もあります。世には昔の私のようにさまざまに迷いを抱えていらっしゃる方がいると思います。迷いを減らす一つの方法は意志を強くすることです。

 江戸時代の寺子屋などでは論語などの素読(意味を考えないで文字を声を出して読むこと)をし暗誦していたようですが、私はこの教育方法に関心をもっています。論語のように内容の深いものだと、自分が成長するにつれて解釈もさまざまに成長し、いつもそこから学びを得ることができます。論語を若いときに覚えてしまえば、人生少しでも時間があればそれの一節を思い出しそれについて熟考することができます。そして熟考するうちに物事が見えてきます。

 インドのヴェーダもそうです。インドではヴェーダマントラを若いときに徹底的に覚えこまされます。若いころに覚えてしまったものは一生の宝になります。ヴェーダを覚えてしまえば、時間のあるときにそのマントラを瞑想し、そこから知見や気づきを得て生活の指針とすることができます。

 意志を育むとき、少し調べてみたのですが、私の場合は論語ヴェーダを熟考・瞑想するのと似た方法を用いていることが多いと思い当たりました。論語ヴェーダには指針が書かれており、それを読むだけではその指針を人生のそれぞれの場面でどう応用すればいいかはわかりませんが、熟考を通して具体策が得られます。

 現代の日本において江戸時代のような教育方法を実施することは不可能とは言えなくとも、難しいと思います。しかし、私などは道徳教育のひとつのあり方として、素読や暗誦を活用するといい効果が得られるのではないかという気がします。

 あれもしたい、これもしたいと忙しい人生をやめられないのはある種の病気だといいます。忙しく生きている理由がわからないまませわしくしている人がいます。私も何かにせかされているような時期がありましたが、なぜ忙しくしているのか内省しているとき、枝を切られた木を見てその原因に思い当たりました。

 木は放っておいたら自然に成長していきますが、枝を落とす場合もあります。どのように枝を整えればいいかということは問題の一つだそうですが、葉脈に似た形に枝を落とせばいいという人の意見が適当だと私は思っています。それはさておき、木は変な形に枝を落とされると、ある種「狂ったように」小さく細い枝をたくさん発生させることがあります。そういう木を見ていて思ったのですが、人間も命の大切な部分を抑圧されたり、否定(切り落と)されたりすると、何とか生き延びようとしてさまざまに忙しくこまごまとした活動に携わるのだと思います。

 知識・知性偏重の教育は人生の限られた一部分を見る習慣を人々に植え付けます。そうではなく、人間の命の大切な部分をそのまま育むために、人生を一つの全体として捉えるために、価値教育・霊性教育が不可欠なのだと思います。(論語ヴェーダの学習あるいは聖書や仏典の一説の学習はそういうものです

 命が大切にされ、人生を一つの全体として受け止めることができるようになれば、迷いも減り、意志も育っていくのではないでしょうか?