愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

思考のコントロール

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tatichust


私は心のことについてしばしば書きます。今日も心=思考についてです。若い頃、デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉に大きな衝撃を受けました。思考は人間にとって大きな要素です。しかし、それは単なる道具です。心=思考を観察し続けることで、人間は心=思考ではないと気づくことができました。

 若い頃は本当にいろいろなことを考えていました。なぜそれほど考えていたのか、今となってはよくわからないのですが…。しかしインターネットをのぞいているとわかりますが、他の人もいろいろなことを考えているのがよくわかります。

 思考もコントロールしなければなりませんせん。あまりになんでも考えるのは人間にとって不自然なことです。必要なことについて考えるのがいいです。生活の中でどうすればいいか迷ったときなど、問題を整理するために私は頭を使います。問題が整理できれば、あとは識別を用いて判断をします。そして行動します。

 思考を鍛える、あるいは思考が適切であるためにはどうすればいいか? これまでの経験から言えば、聖典に書かれている聖句をじっくり考えるのがいいように思います。私は、自分の家の宗教の聖典、お釈迦様の言葉、そしてとても大きな影響を受けたサイババの言葉についてしばしば考えます。

 浄土真宗では阿弥陀様への全託と称名を勧めます。私は、全託とはどういうものなのか、称名の意義とはどういうものなのかについて何年も考え続けてきました。自分なりの理解に沿って実践もしてきました。
 お釈迦様の法句経には智慧の言葉がたくさん載っています。一通り目を通して、心惹かれる聖句についてじっくりと考えます。
 サイババは、「すべてを愛し、すべてに仕えなさい」といいます。どのようにすれば、自分が好意をもっている人だけでなく、自分に悪意をもつ人や自分を傷つける人を愛することができるのか、また彼らに奉仕することができるのかを考えます。

 お経や聖典の分量は莫大で、サイババの言葉なども何十冊もの本が出版されていますが、それらを読んでいて心惹かれるトピックはたくさんあります。それらについて本当に心の奥底から納得するまで考えます。それらをどのようにしてこの世界での生活に応用すればいいかを考えます。この20年間これを繰り返してきました。

 今となっては、私の思考は安定し、両岸が定められた川が海に流れ込むように、スムーズに機能するようになってきました。それ以前の私の思考は、人生がまるでギャンブルであるかのように、とりとめのないものでした。パチンコや競馬、競輪に足繁く足を運ぶ人たちがいますが、彼らの思考は以前の私のように安定していないのだと思います。

 聖典の聖句について考えることは、人間を鍛えます。それは存在の深いところから発せられた言葉なので、それが理解できるようになるには自らが深まっていかなくてはなりません。人間が深まることで日常生活に益があるでしょうか? あります。日常生活を営むときの態度に変化が出ます。何か問題に直面したとき、解決策に気づきやすくなります。大海が海面上の波に影響されないように、この世の波に影響されにくくなってきます。自分の人生を自分でコントロールできるようになります。

 数学も論理的な思考を鍛えてはくれますが、深みのある言葉について意味を問うことも思考を鍛えます。どちらが安全かといえば、聖典の言葉について思考することのほうが安全に思えます。特にサイババは難しい言葉を使っていないので(ただしインド由来の言葉は最初わかりにくいものもあります)、彼の言葉はお勧めです。

 たとえば、「神はハートの中にいると信じること、神はいつもいて、いつも導いてくれているということを信じることは、勇気と徳と光明を授けてくれます。」(サイババ)という言葉があります。神がハートの中にいること、神がいつもいること、神がいつも導いてくれていること、信じることなどについてそれがどういう意味なのか、私は考えてきました。ハートについて理解することで、人格が統合されてきましたし、神の遍在に気づくことで恐れが減ってきましたし、神の導きとはどのようなものなのかがわかると迷いに沈むことが減ります。

 さまざまなこと、あらゆることについて考えても、ほとんどがエネルギーの無駄だと思いますし出てくる結果も大したものではありません。日々の生活を営むのに必要なことを考える以外は、ちょっとした聖句を心のポケットに入れておき、時間の合間に飴玉を舐めるように頭で味わうのが精神衛生にもいいようです。