伝統と革新

イメージ 1
Fede Gonzalez



1年ほど前の新聞に載っていた話です。読んだ当時感銘を受けた話だったのですが、最近しまっていたその新聞を取り出し再読しました。その記事は和田智さんという車のデザイナーを取り上げたものです。(私は車に詳しくないのですが)初代セフィーロや初代プレセアなどをデザインし、英国に留学したあとはアウディで研鑽を重ねた方です。

 その記事には彼の上司であった方などの言葉がいくつか取り上げられています。
 「誰もが奇抜なデザインを求めがちだが、大きく変えることが重要なのではない。心の中に入り込むことが大切だ」
 「デザインは、受け継がれてきた特徴を保たねばならない」
 「数ヶ月おきに目先を変えて、いいものが生まれるはずがない」(GLOBE 115号)

 アウディで働いていた時、和田氏のデザインは新しかったのですが軽いと評され、最初採用されなかったそうです。しかしその後過去のアウディの車から学ぶ中で彼は時間の重みを感じるようになり、新たなデザインの境地を獲得していったとのことです。その彼は言います。「単に革新的なデザインではなく、過去から積み上げたデザインに新しい解釈を吹き込むようにしない限り、歴史のある街では浮いてしまう。」

 私は自分自身のことをあたらし物好きだと思っています。あまり軽薄でないつもりなのですが、何か新しいものがあって心を刺激するようなおもしろみを感じたら、ついついそれが
気になってしまいます。ものに限らず、文化一般に関してそういうところがあります。若い時私は日本がとても窮屈で住みにくい場所のように感じ、違和感を感じていたので、新しい生き方を目指したものです。

 私は多分それほど保守的ではないと思いますが、伝統は非常に大切にする人間です。伝統には時間の重み、積み重ねがあるので何か生きたものを感じます。保守的ではないが、伝統を大切にする人間。矛盾しているように思えるかもしれません。私は(このブログでよく書いているように)宗教という伝統は大切にします。宗教は生きたものだからです。しかし、頭を悩ませる、いのちの感じられない形骸化されつつある経典理解には違和感を感じます。

 和田氏の言葉を借りれば、過去から積み上げられてきた伝統に新しい解釈を加えることで、私は若い時期に感じていた生きにくさを少しずつ解消してきました。しかし基本的な原則に変更は加えられていません。たとえば、日本には親を敬う伝統があります。私はそれをもっともなことと思ってきましたが、現代においてそれはある場面において難しいこともあります。そのようなとき、たとえば「敬う」とはどういうことなのかその意味を徹底的に掘り下げ、少しずつ新しい理解や解釈を育んできました。

 私より20歳年上の方々、つまり団塊の世代の方々は学生時代に暴れまわっていました。そのようなやり方では世の中は変わりません。本当に守らなくてはいけないものは何かをしっかりと見極めて、その本質とはあまり関係ないものを現状に合わせて修正する作業によって、世の中は変化するように思います。

 現代日本人はデザインの本質を理解しているようには思えないと語りつつ、「日本の美意識や伝統などをグローバルに展開できれば、きっと世界から尊敬される」と信じている和田氏の記事はとても啓発的でした。