愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

霊性

 霊性という言葉は、現代の日本人にはなじみの少ないものです。人によってはスピリチュアリティと誤解することもありますが、なかなか定義の難しい言葉です。人間は体と心と魂の組み合わせであると言われますが、魂の領域に関することを霊性と呼ぶことができます。
私の師は霊性とは非常に簡単なものであるといっています。たとえば、「バラの花をつぶすのは難しいことですが、霊性はそれよりも簡単で、ただ手放すことです」といっています。ハンカチのような非常に軽いものでも、何時間も持っていると疲れるものですが、手に持っているものを手放すことは非常に簡単です。そのように、自分が抱えているさまざまな執着、観念、思いこみ、信念を手放すことが霊性だとわかりやすく説明しています。

 子ども、特に幼児は霊的な存在です。子どもはままごとをしますが、たとえば泥で食事を作っているとき、それが食べられないということは十分理解したうえで、ままごとを楽しんでいます。幼児はままごとをしているとき、霊的体験をしているのです。

 母親は赤ん坊が泣くと、手元の仕事を脇に置いて子どものもとへ駆け寄ります。母親は赤ん坊の泣き声の音程などを知的に調べたりしません。愛に促されて赤ん坊のもとへ来るのです。これは霊性です。

 霊性は愛の精神と定義することもできます。人々は愛、愛と言いますが、あまり愛の原理を深く追求する人はいないかもしれません。実際は、愛が心や身体に浸透するとき、心や体が十二分に機能するのですが、それらについて教える教師がほとんどいないので、ほとんどの人が愛の原理、霊性について無関心でいます。知性は霊性とは異なります。人々は知性を用いて世界の不思議を探求し、世界の問題を解決しようとしているかもしれませんが、愛それ自体は、知性を越えて世界を探求し、世界の問題を解決します。

 従来霊性を教え守ってきたものは宗教の領域でしたが、現在宗教者たちが十分に愛を自覚しているのか私にはよく分かりません。学校では知性を伸ばすことに多くの労力が割かれていますが、道徳教育にもっと力を入れてもいいのではないかと私は思っています。

 霊性の向上、すなわち愛で自らを満たすことは、先に書いたように、捨離すなわち手放すことを要求します。実際には執着を捨てても、何も失われるものはないのですが、人々が霊性に関心を向けない理由の一つは、この手放すことに恐怖を感じているからかもしれません。

 ビルゲイツも年に1度は黙想の期間をもっています。スティージョブズも日本の禅に影響を受け、それを実践していました。二人とも手放すことができたから、新しいものを手にすることができたのです。しかも新しいものを手にしてもそれに固執しませんでした。彼らは人生を楽しんでいたと思います。

 人間が、体と心と魂の結合体であるかぎり、人間が霊性から目をそらし続けることは不可能です。そうであるならば、若いうちから霊性に関心を持ち続けておいた方が好ましいでしょう。そのような人たちは、年をとってから大いなる平安に満たされ、喜びに満ちて人生を終えることができることと思います。