愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

神の恩寵を想う

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CAMILO GARAVITO



以前簡単なヨガを教えていただいたことがあり、その中に神の恩寵を想うポーズがありました。私はそのとき教えていただいたヨガをときどきするのですが、神の恩寵を想うポーズをしていると、体がものすごく硬くなっているがわかり、恩寵を大切にしていないのかなと思うことがありました。

 恩寵は難しい言葉で、私もよく理解していないのですが、今は単純に「恵み」の意味で受け止めています。私はいまパソコンの画面に向かってこれを書いていますが、このパソコンが目の前にあるということ自体も恩寵=恵みなわけで、パソコンがあることを当たり前だと思わずに、感謝してそれを大切に活用しなければいけないなと思うわけです。すべては神様が与えてくださったものですから。

 インドの聖者ラマナ・マハリシの伝記を読んだことがあります。彼(彼に限らずインドの聖者)は食べ物や物を大切にします。調理した野菜の皮なども捨ててしまわず、動物の餌にします。一粒のお米でも決して無駄にせず、拾って食べます。物もそうです。本当に無駄のない生活を送っています。彼(ら)は、すべてのものが神の顕れであることを心から悟っているのだと思います。

 私の師は、「すべては神です。すべての人は神です。」と繰り返し教えます。何年もの長きにわたって、接する人を神と思うように心がけてきました。しかし凡人にはこれはなかなか至難の業です。人の個性はそれぞれで、なかには暴力的な人や無責任な人もおり、どういうふうに見ればその人を神と見ることができるのだろうと長年悩んできました。今でもすべての人を神と見ることはできていないのですが、その過程で試みたさまざまな努力がいろいろな気づきを与えてくれました。

 人を神ご自身と見ることはまだできないのですが、最近になって、人を「神の恩寵で満ちた存在」と見ることができるようになってきました。多くの人が豊かなものを備えていることに気づけるようになりました。本人自身は気づいていないでしょうが、私はすべての人が神の恩寵の泉に見えます。


 他にも神の恩寵により意識がいくようになってきました。例えば、畳を神そのものと思うのは難しいのですが、それを神の恩寵=恵みと思うことは比較的簡単なのです。自分を神とみなすことは難しいのですが、神の恵みで生かされていると思うことは簡単なのです。

 インドの三大神の一柱ヴィシュヌ神(世界を維持する神様)の后はラクシュミー女神といいます。ラクシュミー女神は富の神様であり、神の恩寵を象徴しているとも言われます。富を願う人々はインドにも多くいて、ラクシュミー女神に多くの人が祈りを捧げています。しかし、ラクシュミー女神は気まぐれな神様だそうで人々はなかなか富を手にすることができません。ではどうすればいいかというと、ラクシュミー女神はヴィシュヌ神の妃であるので、ヴィシュヌ神をまず求めなさい、そうすれば自動的に富=ラクシュミー女神も手に入るといわれています。

 神ご自身と神の恩寵とは、ヴィシュヌ神ラクシュミー女神のように、いつも寄り添っているのでしょう。いいのか、悪いのかわかりませんが、最近は神そのものよりも、神の恩寵を想う時間が増えてきました。