精神の自由

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Kanolazonika


 読んでくださる方々、どうもありがとうございます。できるだけわかりやすく書こうと心がけているのですが、拙い表現によりわかりにくいところも多々あると思います。ご勘弁ください。内容は確かに自分が思ったことではあります。しかしそれにまして人と人とのつながりというものもやはり大切なものです。3年前東北地方で甚大な被害を出した地震津波の際に、「絆」という言葉がよく聞かれました。私たちは確かにつながっているのだと思います。世界が早くそのことに気づき、一つとなることを祈ります。また、被災された方々の生活が一刻も早く元に戻りますこともお祈りします。

 私は特別人間関係が広いわけではないと思いますが、それでもさまざまな人と出会います。長いお付き合いの人もいれば、出会って短い間に分かれてしまう人もいます。長いお付き合いの人と話をしていると、話にその人の特徴というか癖のようなものを感じることがあります。相手のことは気づきやすいだけで、自分のことはなかなか気づきにくいのでしょうが、私にも癖があると思います。このブログでは似たようなテーマがくり返し出てきますので、それが私の関心事であり、思考の癖なのかもしれません。

 普段からできるだけ精神の自由を確保したいと思っています。肉体は日々の勤めで状況に拘束されていますし、金銭的制約で思ったところに自由にいけないことや生活のありようも制限されています。世の中には法律があるので、それに従う必要もあります。この世はまさにlimited company(株式会社→制約された世界・仲間)です。そのような中にあっても私は精神の自由は確保しておきたいと思っています。精神の自由といっても、ありとあらゆる途方もないことを考えたり想像することを望んでいるわけではありません。他の人の考えるとおりに考えるのではなく、自分で考え、見て、判断し、決断したいのです。

 思った通りに、行動はあり、行動の通りに結果があります。だから、精神が制約されるのは、人生が制約されることでもあります。そのためには食べ物や見るものには気を使っています。例えばテレビばかり、インターネットばかり見ていると、そこにある情報で頭がいっぱいになり、精神が麻痺してしまうような気がします。

 少し話はそれますが、少し前、「この世では違いがすべてです」という言葉をインターネットで見ました。一つの例としては、ブログサービス、フェイスブックツイッター、LINEなどのさまざまなSNSがあります。人とつながるためのものですが、ちょっとした仕様の違いで、その趣きが違ってきます。スーパーマーケットもそうです。品揃えを売りにしている店もあれば、安さにこだわっている店もあります。ドラッグストアとスーパーの違いも面白いと思います。これらはコンセプトの違いが大きな違いになってあらわれています。

 若い頃は、ほかの人と違っていたいとファッションにこだわる人もいます。世界に60億か70億の人がいますが、私はみんなそれぞれ違うと思います。二人と同じ人はいません。そして、その違いを実感するにはどうすればよいかということを考えていました。今は、それは良心に従うことではないかと思います。場合によっては、良心に従うと、生活の中で苦境に陥りそうなこともありますが、良心に従うことこそ、ほかの人との違いをもたらすものの最たるものでしょう。

 私のわずかばかりの経験から言うと、良心に従っているときは精神が自由です。他者の影響を受けません。独立して思考している実感があります。自分の人生をコントロールしているという感覚があります。

 この世に問題などないとおっしゃる方がいます。ただ単に認識が間違っているから、問題が目の前に現れているのだと。認識が修正されれば、今まで問題だと思ってきたことは問題ではなくなると。自由な精神があり、臨機応変に認識を修正できれば、どんな状況におかれても、なんとか対応する方法が思い浮かんできます。しかし、自由な精神がなければ、自分の認識を改めることができません。

 私にとって自由な精神はとても大切なものです。これまでの人生のかなりの部分、このために戦っていたのかもしれません。

※ "All days are good, some are just better."-Ruben Lenten
 「すべては好日です。何日かはただより良いのです。」(ルーベン・レントン)