愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

自由

人は自由について語ります。自由主義自由経済などという言葉もあります。以前このブログでは運命について2回書きましたが、そのときに書いたように、私は人生の大きな流れはほとんど決まっているという運命論者です。杭とロープにつながれた牛がその範囲内で草を食むことができるように、人間の活動領域も実際は限られているというふうに思っています。

しかしながら、人間には根強く自由の感覚があります。私は運命論者ですが、自由を主張される方の意見はよくわかります。また、私自身も自由の感覚を普段全身で感じています。

自由に関してひとつ誤解して欲しくないことは、感覚の自由は本来の自由ではないということです。感覚の自由とは、これが食べたいからこれを食べる、あれを見たいからあれを見る、その話を聞きたいからそれを聞くというような類のことです。これは自由のようですが、実は感覚の奴隷になっているだけだと思います。そういう味のものが食べたくで仕方がなくどうしてもそれを食べてしまう、ああいう刺激が欲しいからああいうものを見てしまう、というように、人間の意志が感覚の対象物によって振り回されているのです。

自由とは自分に由(よ)ると書きます。自分が意志し、それに関して(心で)計画し、感覚器官(目、耳、鼻、皮膚、舌)と行動器官(手、足、言葉、生殖、排泄)を適切に用いて行動するということだと思います。自由とは、良心に従うこととも言えるでしょう。

私は規律を大切にするのですが、人によってはこれを窮屈に感じます。私は良心の促しにいつも耳を傾けるようにしているのですが、これもある種の束縛のように感じる人もいるかもしれません。欲しいものが必ずしも手に入らない、良心に従っていては多くの楽しみの機会を逃してしまうような気がする。しかし実際には、良心に従って行動した結果、内なる満足と解放感が得られます。この解放感こそが自由の感覚の正体なのだと思います。

西洋の哲学者は、「~からの自由」と「~する自由」との二つの自由を取り上げました。前者は束縛からの自由で、後者はしたいことをする自由です。両者は共に必要なのだと思います。

おまけ)”Follow your bliss and the universe will open doors where there were only walls."-Joseph Campbell
「至福(与えられた恵み)の内に生きなさい。そうすれば、壁しかなかったところに扉が開くでしょう。」―ジョゼフ・キャンベル(アメリカの神話学者)