新しい言葉の必要性

私の尊敬している歴史家・網野善彦さんはおっしゃっています。「われわれの持っている語彙、用語は、まだまだ大変貧弱なのです」。現在私たちの用いている日本、金融、百姓などの言葉は現代とは違った使われ方をしていたそうです。これらの古くからの日本語と並行して、明治以後外来語の翻訳を通じて新しい言葉が生まれましたが、まだまだ私たちは表現すべき言葉を十分に獲得していません。

「言葉は存在の家」だと言われています。私たちは、衣服や家で自分を守っていますが、言葉によっても自分を守っています。自分の使う言葉の自由さに比例して、自分が自由になります。言葉を自由に操れない人は、どこかで不自由さを感じているのではないかと思います。まだ彼・彼女には上手に自分を表現する言葉が足りないのだと思います。

ウパニシャッドにも「自己(真の自分)に関して、それを統一するのは発声器官による言葉です」とあります。言葉が矛盾なく調和している人は、いつも変わることのない自分自身でいることができます。嘘をついたり、さまざまに矛盾した行動をとる人は、自己が統一されていないのではないかと思います。言葉は自分の行動を方向付けますが、言葉足らずにより、確かな行動ができない人もいるような気がします。

語りえぬものの中で最たるものは真の自己です。自分が自分であることはあまりに当たり前ですが、体や思想については語りえても、真の自己について語ることは困難です。それは存在し、行動し、世界に向けて表現されるものです。

私たちは、ある領域に関しては、かなりのことを語ります。例えば、食道楽の人は食べ物に関して多くを語るでしょう。私もあることに関しては、若干は知っており、それについて少しは語ることはできます。学問の領域にも百万の書物があります。しかしそれらは、広大な大地のごくごくわずかな領域において少しばかり土を掘り返した程度のものです。

私たちはもっと自信をもって、自分の言葉を紡いでいくのがいいと思います。新しい言葉を使うと、最初はコミュニケーションがうまくいかないかもしれませんが、コミュニケーションのギャップは逆に豊かさを示しています。あえて難解な言葉を用いなくてもよく、簡単な言葉の組み合わせに気を配るだけでも十分です。自分の存在をあらわすのに必要なちょっとした言葉・・・。私たちはまだ黄金時代に至っていません。私たちが知っていると思っていることは、知られるべきことのごく一部にしかすぎません。


おまけ)"There is no way to happiness; happiness is the way."-Buddha
「幸せへの道はありません。幸せこそが道なのです」―ブッダ