愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

アーナンダ(至福)

お釈迦様は成人するまでお城の中にばかりいて、世の中のことをほとんど知らなかったそうです。結婚して子どもが出来たので、親が外出の許可を出し、初めて人々に接することになったそうです。

お釈迦様が外出するとそこには病気で苦しんでいる人がいました。お釈迦様は彼を見て、「何故苦しんでいるのか」と聞かれました。付き添いのものは「彼は病気なのです」と言いました。お釈迦様は衝撃を受けました。しばらくいくと、腰の曲がった人がいました。お釈迦様は彼を見て、「どうして彼の腰は曲がっているのか」と聞きました。付き添いのものは「人は年をとると皆ああなるのです」と言いました。お釈迦様は老いというものを知りました。またしばらく行くと死体がありました。お釈迦様は「どうして彼は動かないのか」と聞きました。お付きのものは「彼は死んでいるのです」と言いました。すべての人が死ぬということを聞いて、お釈迦様の心はかき乱されました。

お釈迦様は繊細な青年だったように思います。お釈迦様はたったひとりの病人、たったひとりの老人、たったひとりの死人を見て、苦しみ始めました。生病老死、この世のすべてが苦であることに気づきました。多くの人は、病人や老人、死人を見ているのですが、苦しむ人は滅多にいません。しかしお釈迦様は苦しみました。ここからお釈迦様の探求が始まりました。

人は求めているものを得ると言われます。お釈迦様は苦からの解放を求めました。お釈迦様は最終的にニルヴァーナ(涅槃、至福に満たされている状態)にたどり着きました。その過程で得たことをお釈迦様は多くの人々と分かち合いました。

実は私も青年時代に突然苦に襲われました。高校生時代に同級生が自殺したのです。ほとんど話をしたことのない人でしたが、私には長年彼女のことが心に残っていました。なぜ死んだのか、なぜ生きなかったのか、生きるとはどういうことなのか・・・。底のない沼に放り出されたようで、そのような状態から抜け出すのに長い時間がかかりました。

インドでは至高の絶対者(そして個人)の本質はサット・チット・アーナンダだといいます。サットとは存在するということです。絶対者は存在する、私も存在するということです。チットは純粋意識です。それは意識で満ちている、意識されるということです。アーナンダは至福です。至高の存在、そして私たちの存在の本質は至福そのものだということです。すべての人は、生きようとし、知ろうとし、喜びを求めます。

至福は私の大きなテーマの一つですが、最近少し思うことがありました。歴史を見れば、あるいは最近でもニュースを見れば、世の中には争いや不幸、苦しみがたくさんあります。戦争では何百万、何千万人という人が苦しみながら死んでいきます。しかし、人類はそれでもめげることなく生きています。そういうのを見ていると、人間にはありとあらゆる苦しみを癒す力が内在しているのではないかと思うようになりました。苦しみの期間は何十年と続くこともあり、苦しんでいる最中はそんなことを感じることはできないのですが、どんな苦しみを味わっても、時間が経てばそれは癒され、過去の一エピソードになってしまう時が来るように思います。

個人だけでなく、自然もそうです。福島県周辺は放射能で汚染されていますが、大地の力、自然の力によって何十年後か、何万年後には必ず浄化されます。このようにすべてを回復させる力があります。これは至福の一側面のように思うのです。

人の本質が至福であると初めて聞いた時、私は世界がそれまでと違って見えるようになりました。皆が喜びに満ちた人生を送って欲しいです。