カルマの引き継ぎ

 

私を真宗にいざなったのは妙好人たちであり、妙好人を最もよく私に紹介してくださったのは、民藝運動で有名な柳宗悦氏でした。何冊か柳宗悦氏の著書を手に取ったのですが、その中でおすすめなのが『柳宗悦 妙好人論集』(岩波文庫)です。禅に関する本を読むと頭がこんがらがる(混乱する)ことが多く、申し訳ないですが、禅に関係する人とは思考が合わないと感じます。一方柳氏の妙好人に関する文章はほとんどすっと頭に入ってきます。私は文化というか生活の質というかそういうのが柳氏や真宗に近いのかもしれないと自然に思わされます。今日はこの『柳宗悦 妙好人論集』の一部を引用し、それに関連してカルマのことを書きたいと思います。

 

この『柳宗悦 妙好人論集』の中に「受け取り方の名人」という文章があります。長いですが一部を引用します。
・・・・・・・・・・・・
豊前国中津郡矢富村に新蔵という極貧の人がおりましたが、稀有の信者でありました。ある日の事、近くに相撲がありまして、新蔵も見に出かけました。ところが一人の相撲取が投げられて大変な怪我をいたしました。仲間たちが話し合いますには、こんな怪我人が出来たのは、定めし汚らわしい人間が近くにいるからだろう。探し出せというので、手分けして探しますと、ついに破れ衣を着て髪を藁で結った、穢多のような風情の一人を見出し、ああこの男のためだという事になり、大勢して新蔵を殴るやら、蹴るやら、ひどい目に合わせました。新蔵はやっとのことでその場をのがれ、家に戻るや嬉しそうに女房に申しました。
「今日は近頃にないありがたいご意見を受けて参った」
すると女房は、
「それはそれはお仕合せなこと、早く私にもおすそ分けしてくだされ」
と申します。新蔵は言葉をついで、相撲場でかくかくの事があったと一部始終を話して、
「この世で穢多と間違えられるような身が、来世では阿弥陀様と同体にならせていただけると約束していただいておるのに、歓喜の心もうとうとしく、毎日を送るこの私にご意見をくだされたのだと思うと、喜ばずにはおられぬではないか、お前も一緒に悦んでくれよ」
といい、夫婦もろ共、己を忘れて歓喜雀躍したと申します。
(中略)
昔、越中赤尾の道宗が、篤心なものだという評判が界隈に広まったとき、一人の真言宗の坊さんが、どれ一つ試してやれと思って、たまたま草取りをしている道宗を見つけ、後ろからいきなり蹴飛ばしました。道宗はよろめいて倒れましたが、ただ「なむあみだぶつなむあみだぶつ」といって、また草刈りをはじめました。それで二度蹴飛ばしました。道宗はまた倒れましたが、なおも黙っております。それで坊さんは、
「お前は他人に蹴られて、なぜ怒らぬのか」
と尋ねますと、道宗は、
「いいえいいえ、私は人から蹴られるような悪者でございます。蹴っていただければ、それだけ前世からの悪業をいくらかでも償っていただけるわけで、誠にありがたく存じます」
そういって称名しつつお礼を申しました。このお坊さんは道宗の答えに大変心を打たれ、ついに真宗に帰したと申します。
・・・・・・・・・・

 

私は普通の人間なので、いきなりわけもわからず殴りかかられたり蹴られたりすると心の底から怒りや悲しみが湧いてくるでしょう。私だけでなく世の人は、普段ウソを頻繁につく人でも面と向かってウソつき呼ばわりされると腹がたつようです。人はみな自らの尊厳に知ってか知らずか気づいているからだと思うのです。しかしながら豊前の新蔵や赤尾の道宗のような妙好人として語り継がれる人たちは、不合理なひどい目にあってもそれに対して怒りを示さず、自らの罪深さや仏法の救いへの信仰が深いため平常心で受け止めることができます。このいいようのない人間の深みが妙好人の魅力です。並の人間にできないことを容易にやって見せます。これはおそらく全託に至っている人の姿なのだと思います。全託に至っているかどうかはいつも心が安らかかどうかを見ればわかるといいます。私もそういうまったき全託の境地に至りたいと思ってはいます。

 

さてこの新蔵や道宗の高い境地はそれとして、私が思うのはカルマ(行為の結果)についてです。人は行為すればその行為の結果に直面するというのがカルマの法則ですが、人が犠牲を払う時には、つまり上記の新蔵や道宗のようにひどい目にあっても思いですら仕返しせず穏やかに受け取る時には、カルマ=行為の連鎖は断ち切られるのではないかということです。道宗は「前世からの悪業を償う」とのべましたが、確かに前世からの報いとして足蹴にされたのでしょう。しかし仕返ししなかったことでカルマには区切りがついたと思います。一方で道宗を蹴った真言宗の坊さんはカルマ=行為の報いを新たに作り出しました。彼は将来その報いを受けなくてはならないでしょう。ここでわかるのは、道宗が犠牲を払ったことによって、一つ乗り越えなくてはならない課題が道宗から真言宗の坊さんに移されたということです。人間は何らかの課題を抱えているが故にこの世に生まれてきますが、道宗はその課題の一つを克服、つまりテストの一つに合格しました。それは犠牲によってなされました。子孫をもうけることで血を代々継承していくように、犠牲はある種の課題を人から人へとつないでいく働きをもっているのではないかと、私は最近思ったのです。カルマの法則はとても深遠ですので、私のこの仮説が正しいかどうかはわかりませんが、少なくともやられたらやり返せではカルマの連鎖は永遠に終わることはありません。人がこの世を卒業するには犠牲は不可欠であるとされていて、もしかしたらカルマ=課題の継承がこういう機会に行われているのではないかと思ったので今日はそれについて書いてみました。実際のところは私にはよくわからないのですけれども。

 

 

愛と奉仕

 

先週は愛も無属性のものを指し示す言葉の一つではないかと述べました。この愛についてもう少しばかり触れておきたいと思います。先週も書きましたが、愛は誰かあるいは何かに向けられると愛の普遍性が制限されます。たまにならばそれもいいでしょう。しかし四六時中愛が制限され続けていると、愛は愛であることをついには失ってしまい、愛のない人生を送らざるを得なくなりかねません。人間が肉体を維持するには食物が必要でありますが、それと同時に水も必要です。ただの水ではいけません。きれいな水でなければなりません。泥水も水ではありますが、そういうものを取り入れると体は病気になってしまいます。愛に似て、水は他の物質に比べシンプルで属性を感じにくい物質です。そのような水は肉体を維持するのに不可欠です。食料がなくても人はある程度の期間を生き延びることができますが、水がなければ短い期間で死んでしまいます。そのように愛のない人はたちまち死に至ることでしょう。人がきれいな水を確保して置かなければならないといけないように、清らかな愛も同様に確保して置かなければなりません。

 

愛を特定の人に制限したり、特定の物に制限することは、貴重なお金をタバコや一度でも袖を通すかわからない服を買って無駄にするようなものです。人は肉体を維持しなければならないので、食物や体を守るのに必要な衣服を買うのはまったく問題はありません。同じく、人間としての生活を維持するために、自らの肉体や家庭、関わりのあるある程度の人数の人と適切で良好な関係を維持するためにそれらを愛するのも問題ではありません。支出ばかりではお金は減っていきますので、収入が必要で、同様に愛も使ってばかりいると減っていきかねませんので、愛を育んだり維持する必要はあります。

 

愛を育むための行動様式はサーダナ(霊性修行)と呼ばれます。瞑想、神仏の御名を唱えること、奉仕、義務を果たすことなどです。例えば瞑想は意識を雑念で汚さないためのものです。神仏の御名を唱えるとは神仏のことを思うことです。奉仕とは奉仕の対象の内に愛する神仏の姿を思いうかべて行為を捧げることです。つまり愛を育むため、維持するためには人間ではなく愛に等しいといってよい神仏を思うことが必要となります。愛は神仏とこそ釣り合いがとれるものです。愛を人間や物に制限してばかりいると愛は少しずつ枯れていきます。

 

水は淀むと汚臭を放ちます。愛も淀むと汚臭を放ちます。川の水は絶えず流れ続けているがゆえにいつも新しいように、愛を新鮮な状態に保ち続けるにはそれを流し続けておく必要があります。愛を流し続けておくために課せられるものが奉仕です。サイババは「愛を輸入して奉仕を輸出しなさい」とどこかでいっていましたが、愛に奉仕という形を与えて捧げることで愛は流れ続けることができます。奉仕は人への奉仕、動植物への奉仕、社会への奉仕などがありますが、奉仕と良い行為の違いは、奉仕は奉仕の対象の内に愛する神仏の姿を見ますが、良い行為はそうではないということです。人への奉仕は相手の内に神仏を見るがゆえに、つまりは本質的に神仏への奉仕であるがゆえに愛が制限されることはありません。また奉仕の特徴は行為の結果を求めないところにあります。奉仕を捧げることで行為を促す愛は自らを離れ相手へと流れていきます。奉仕によって愛は流れ続けることになります。

 

ブラフマン(神)を知るものはブラフマン(神)になる」とインドではいいます。瞑想や御名を唱えることで神を思う努力をし、奉仕をするときも相手の内に神を見るようにすることで、つまりは神を思い続けることになり、そういう人は最終的に神となります。神を愛する人は神になります。鉄片が磁石にくっついていると鉄片自体が磁石になるのと同じことです。奉仕は神を思うことを促して愛を育み、奉仕はそれを捧げることによって愛を流し続けます。そして奉仕は神への愛の表現なのですから、奉仕に携わる人は最終的に神になります。愛と奉仕は電極のマイナスとプラスのように両方が必要です。マイナスとプラスの片方しかなければ電気が流れないように、愛だけあるいは奉仕だけでは完全ではなく、愛のある奉仕、奉仕へと昇華される愛が人生の成就へと導きます。清らな水を毎日口にすることができれば命を保てるように、愛を毎日育み維持しそれを行為の形に表しておけば、結局のところ人間は平安で幸せに過ごせるものです。時にニュースで見かける残酷な世界の断片は、この愛と奉仕が世界に欠けていることを示しています。地道な努力が必要でしょうが、人々が愛と奉仕を選択するならば、世界は少しずつよくなっていくことでしょう。

無属性なるもの

 

もう4年半ほど前になりますが、「I am I.(私は私)」という題で記事を書いたことがあります。

aitasaka.hatenablog.com


私Iとは本来属性が与えられる以前の無属性のものであるということについてです。今もこの通りだと思っています。今日はさらにこの見解に少しばかり付け加えたいと思っています。

 

愛という言葉があります。この「愛」は人を引き付ける言葉で、多くの人がある種の感情をそう呼んでいるのかも知れません。仏教では愛は愛着を意味するものとしてむしろ慈悲という言葉の方が好まれます。世界には愛について考えるグループがたくさんあるでしょう。キリスト教徒であるならば、愛が何かわからなければそもそも教義が理解できないのかも知れません。私個人はこれまでそれほどこの言葉に強くひきつけられてきたわけではありませんが、それでも少しばかり愛について考えてきました。そして今思うのですが、この愛もI(私)と同じく無属性のものを指し示す言葉なのではないかという気がしています。

 

愛とはこういうものであると愛の属性が指し示されることは、愛に制限を与えることです。たとえば愛とは人間に向けられるものであるとするならば、時に愛は肉体という制限が与えられるものとみなされます。それは更にいえば親子の愛や性愛にまで制限されるかも知れません。つまり愛に属性が与えられたならば、愛の対象が制限される一方愛の対象から外れるものも出てくる可能性があります。愛が対象を制限するならば、それはむしろ愛とはいい難いものです。つまり愛が普遍的であるためには愛は無属性でなければならないのではないかと思うのです。無属性のものは無機質であると受け止められるかも知れませんが、あくまでも私の体験の範囲内の話ですが、そうとはいえないような気がしています。無属性の愛は他の言葉で言い換えれば思考に汚される以前の純粋な意識に似ていて、ただポジティブなものです。無属性な愛は太陽の光のようにただ周囲を照らしているようなところがあります。

 

もう一つ無属性だろうものを取り上げます。アートマ(真の自己)です。もしアートマとはこういうものであるといえるならば、アートマは人間にとって認識の対象となり、つまり自分と離れたものになります。それはアートマの定義に反するものです。アートマは認識の対象ではなく認識の主体といった方が近いものです。「アートマはこういうものである」とはいえないのです。つまりアートマも属性のないものです。これはI(私)の議論とほぼ同じで、おそらくアートマが肉体と結びついた時に、つまり姿のないアートマが人間の姿をまとった時に自らを表象する仮のものとしてI(私)という言葉があるのです。

 

今日はI(私)と愛とアートマの3つを取り上げましたが、もしかしたら他にも本来的に無属性のものはあるでしょう。I(私)と愛とアートマがどれも無属性のものを表す言葉であるならば、これらはつまりは等しいといえそうです。I(私)は愛であって、愛はアートマであって、アートマは愛であって、アートマ(存在)は自らをI(私)と呼ぶのです。

 

無属性のものを自覚することができるでしょうか?私は自らの内に無属性のものを自覚できています。それは愛なのです。純粋なるものであって、それがすべてをささえています。それは人生を創造しています。自らを浄化すること(サーダナ)が人生を生きる重要なテクニックであるならば人はそこに帰融する運命でもあるでしょう。無属性なるものは創造・維持・破壊であり、ヒンズー教ではこの3つの属性をもつものは神であるとされます。いえ、神という言葉は今はおいておきましょう。無属性のものを自覚することがまずは大切だと思うのです。

サマディ(三昧)

 

先週シャンカラーチャーリヤの詩
(よき仲間は無執着へと導き、
無執着は人を迷妄から解放し、
迷妄からの解放は心の着実さへと導く。
そして心の着実さは人に解脱を与える。)
について触れました。今日はこの詩の後半部分に少し焦点を当てて書いてみたいと思います。

 

ツイッターを見ていたら、「仕事ってキレたら終わりのゲームだなと思う。キレていい結果になってるの見た事ないし、大体よくない結果になるうえそれが後引くし、最悪の場合人生狂うレベルで悪い結果になる。(後略)」(井上大輔)というツイートを見かけました。このツイートの内容についてはよくわかります。私は多分ですが比較的怒りの少ない人間ではありますが、しかしあまりにひどいと怒りが湧くことはあります。表現能力のなさを恨んでも仕方ないのですが、何といっても相手が理解しない場合には語気が荒くなってしまいそうなことはこれまで何度もありました。実際にキレたこともあります(言葉だけですが)。しかし引用したツイートにあるように、非が仮に相手にあったとしても、「キレたら終わり」であることは皆知っていていいことでしょう。

 

一方に二元性があって、一方に一元性があります。二元性とは、利益と損失、喜びと悲しみ、苦と楽、成功と失敗などのことです。また自分によくしてくれる人にはよく接し、自分に敵対している人には敵対し、愛には愛を、暴力には暴力をかえすこと、真実には真実を、嘘には嘘をかえすのもある種の二元性です。これに対して一元性とは上記のようなことがなく、人生のアップダウンや二項対立を等しく見ることです。

 

日本に三昧という言葉があります。このサンスクリット語はサマディです。三昧が日本仏教においてどういう文脈で語られているのか私は知らないのですが、般若などと関係しているかも知れません。サマディはサマ=等しい、ディ=知性の組み合わせで、いつも知性が安定していて一元性のみが見えている状態です。二元性に振り回されていないのです。一方般若はサンスクリット語でプラグニャーナでしょうし、サイババはプラグニャーナをCIA(constant integrated awareness:常に統合された包括的な意識)と説明しています。プラグニャーナとサマディは関係があると思うのです。

 

常に統合された意識というのがどういうものかという問いはありますが、少なくとも100%自分がなしていることを理解していることは確かではないかと思います。自分の思いと言葉と行動がコントロールできている状態です。つまり起きていることに対して変わらぬ態度で向き合えているわけです。部分的に自分がしていることを理解しているのは視野の狭い英知で、100%理解しているのは開かれた完全な英知といえるかも知れません。たとえですが、出産したばかりの両親特に母親は赤ん坊のことにずっと意識が向いているでしょう。夜泣いてもすぐに起きて乳を与えたりなだめたりします。まともな睡眠が取れないと聞きます。私は赤ん坊の面倒をみる経験はありませんでしたが、それでも人生の短い間でしたが、四六時中あることに意識が向いていて睡眠時間が少ない時期がありました。それを経験した後では、自分の意識状態が以前とずいぶん変わったような気がしています。光明瞑想のおかげもあります。自らの思いと言葉と行動に責任をもとうとする習慣ができています。そうはいっても苦手なところを刺激されると気持ちが不安定になりかかることは今でもありますけれども。

 

シャンカラーチャーリヤの詩に戻れば、迷妄とは簡単にいえば二元性です。一元性を選択するということは心の着実さをもたらすわけです。心の着実さとはサマディ(知性が安定していて、人生に100%の責任をもとうとしている状態)に近いでしょう。プラグニャーナの状態において、特に知性に着目した言葉がサマディなのかも知れません。人生に100%の責任を持とうとしても、必ずしも人生が自分の思う通りに進むわけではないでしょうが、それでも対応できる範囲の対応を決して放棄しないということです。

 

アシュタンガヨーガはインドで有名ですが、これはヨーガの8段階について述べています。7段階目が瞑想で最後の8段階目がサマディ(三昧)です。7段階目の瞑想までは自分の努力で到達できるようですが、8段階目のサマディは恩寵次第だと聞いたことがあります。サマディは人生の目的地を表す一つの言葉=境地ですが、恩寵に依存しているとしても、自らが何をしているか100%意識して日々生きていく努力はできなくはありません。こういう努力の果てに解脱が来るとシャンカラーチャーリヤはいっていますし、アシュタンガヨーガにおいても、最終的にサマディに近づくと述べられているのでしょう。私は解脱やサマディの境地に達してはいませんが、可能な限り自分がやっていることを意識し理解し、人生に責任をもとうとしています。

よき仲間とソリチュード(無執着)

 

宗教と個人のありように関してもう少し書いておきたいと思います。こちらのサイババのご講話の4ページ目に次のような詩があります。

https://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume39/sss39-12.pdf

 

Satsangatwe nissangathwam, 
Nissangatwe nirmohathwam, 
Nirmohatwe nischalatathwam, 
Nischalatathwe jivanmukti. 
 (Sanskrit sloka)
(Good company leads to detachment;
detachment makes one free from delusion;
freedom from delusion leads to steadiness of mind;
steadiness of mind confers liberation.)
(よき仲間は人を無執着へと導き、
無執着は人を迷妄から解放し、
迷妄からの解放は心の着実さへと導く。
そして心の着実さは人に解脱を与える。)

 

上のサンスクリットの詩は元は不二一元論の大家シャンカラーチャーリヤの詩であったと思うのですが、今確認できません。


サンガは仏教でも使われる言葉ですが仲間という意味です。サットは存在、善というような意味でサットサンガはよき仲間のことです。霊的な道を歩む上で余計な雑音や世間に吹き荒れる暴風の影響から離れるために、インドではサットサンガが勧められています。乾燥したところにおいたコップの水はすぐ蒸発してなくなってしまいますが、水の入ったコップを水の張ったたらいの中に置くとコップの水はなかなか蒸発しません。そのようによき仲間がまず第一に必要だとされます。宗教の仲間もそのようなよき仲間であって、私はこれは好ましいものと思っています。

 

サットサンガ(よき仲間)はニッサンガ(無執着)へと人を導くといいます。ニは否定でニッサンガは仲間をもたないことの意味です。これをソリチュードのことだと解説している人の話を聞いたことがあります。ソリチュードは一人でいて一人の時間を楽しむことです。つまりここでニッサンガはサットサンガ(よき仲間)と長い間過ごすことによって精神的に自立し人間の仲間がいなくても真の友(仲間)=神と過ごせるようになった人のことです。人間関係に執着がなくなったがゆえに無執着と理解されます。よき仲間のおかげで一人の時間(実際は神との時間)を過ごすようになるというわけです。

 

モーハは迷妄という意味で、日本語のバカという語の語源はこのモーハだと聞いたことがあります。これにニ(否定の接頭語)が付き、原理という意味のトワムが後ろに付き、ソリチュードを愛する人は次第に迷妄から解放されると解説されます。神と過ごしているのですから、それ以外のものは退けられるわけです。そして迷妄から解放されるならば、心が揺さぶられること、動揺することは減っていきます。これが心の着実さです。あとは着実な心に従って生き続けていれば解脱(ジーヴァンムクティ=個別性からの解放)に到達するというわけです。

 

宗教と個人との関係はこの詩に表わされているとおりではないかと思います。出発点として生まれたときに宗教=よき仲間の中にあっていいのですが、神との直接的な関係を育んでいくことを通じてソリチュードを楽しむようになります。よき仲間とは関係は続いているかもしれませんが、それは相対的にあまり意味がなくなってきて、むしろ神との直接関係を楽しみます。まずは人間はここまで達していいでしょう。その後の過程は半ば自動的にもたらされます。もしソリチュードを否定されそうになれば、その否定するものは迷妄といえるものではないかと自問していいでしょう。人生において着実な努力=着実な心が育まれたならばかなりの程度人生は成功しています。宗教は人を迷妄で満たすのではなく、人に着実な心を与えなければなりません。あとは地道に神を思いながら歩み続けるのみです。実際にこの人生で解脱に達するかどうかはわからなくはありますが、少なくともこのような着実さ、誠実さがありさえすれば、その人の人生は十分に霊的であったと総括できるでしょう。

 

ほんの4行の詩ですが、お釈迦様のお経以外にもこのように優れた詩がインドにはたくさんあります。私の視野の狭さのせいで詩の意味がぼやけてしまっているかもしれませんので、どうぞ各人が自らの経験に照らして詩を再度味わわれることをおすすめします。

宗教の目的

 

今週は宗教の目的についてです。先週は宗教の枠を出ていかなくてはならないのではないかと述べましたが、私にとって宗教は目的ではなく、ある目的を達成するための手段であるからです。インドや他の国では、大きな葉っぱの上に食事を載せ、食事が終わるとその葉っぱを捨ててしまいます。あるいはセミは脱皮すると抜け殻を放っておきます。私はそれと同じように宗教の体系はその実質を身に着けてしまったならば、相対的に重要性が減っていくと思っています。

 

例えば真宗でしたらその目的は往生であって、教義では信心が定まったときに往生が確定するとされています。ただ信心が定まったならば安心があって、主にこの安心の方が強調されることが多いような気がします。安心が得られるまで主に聴聞を繰り返します。また安心が得られたあとは、喜びを何度も味わうためにやはり聴聞を続けます。安心、味わい、聴聞。これらが真宗の教えの核心なのかなと思っています。これらがあれば、教義の細部にまでこだわることはなくなります。あとは安らかな心で日々の努めに励むだけです。

 

宗教とは何かという話を聞いたことがあります。字義の解説のままなのですが、宗教とは中心となる(宗)教えのことだと説法師の方は仰っていました。経典は1000ページもあろうかというものですが、大切なのはあくまでも中心となる教えなのだと。そうなのかもしれません。

 

他の宗教、宗派では何が目的なのかよく知りません。仏教は解脱=束縛からの解放を目的にしていると思うのですが、曹洞宗では道元禅師は只管打座とおっしゃっていて、座り続けることが目的ではないと思いますが、実際のところ座禅の目的をどこにおいているのか私は恥ずかしながら知りません。座禅そのものは目的ではなく目的を実現するための助けとなるものだと思うのですが、座禅にこだわり続けているとどこかで問題が生じそうです。目的と手段の転倒といいますか。仏教のことはまだわずかばかりはわかりますが、他の宗教のことはほとんどわかりません。キリスト教は何を目的にしているのか?あるいは神道は何を目的にしているのか?

 

サイババはReligion is realization.(宗教は実現です。)といっていたことがあります。私なりにこの言葉を解釈するならば、宗教とはリアルな領域を拡大していくことです。迷妄はリアリティの対極です。迷妄を取り払わなくてはなりません。自分自身もリアルでなくてはなりません。自分自身が存在している感触がなければなりません。わたくしごとをいえば、私は1年前の今日何をしていたかは思い出せませんが、1年前の今日確かに存在していただろうことは知っています。私はお酒に酔って記憶を完全に失ったことがないのですが、お酒に酔って記憶を完全に失った人というのは、その間も自分が存在していたという確信があるのでしょうか?それとも自分の存在が失われているのでしょうか?もし仮に自分が失われているのならば、それは宗教が目指すものとかけ離れています。ヴェーダには神の存在を受け入れない人は自分が存在しているという感覚が失われるというマントラがあります。そうであるならば、自らがリアルなものであるために神を信じることは不可欠で、宗教が神について語っているのは理にかなっています。

 

何事も目的がなければ、それに携わることは空虚な結果をもたらすだけです。宗教もそうです。宗教の儀式は何かを目的としているわけで、儀式自体が目的になれば、むしろ虚無感が広まっていくことでしょう。まだだいぶ先だとしても、宗教の目的を自ら達成する道筋が見えてくる程度までは宗教は必要でしょう。しかしそういう段階まで達したならば、宗教の意義は相対的に低くなっていきます。私はそういう気がしています。完全なる目的の達成の瞬間まで宗教の枠内にいなくても、今までに学んだ宗教の原則を守りつつ自らの力で歩むということは可能なのだと思っています。

宗教の枠を出る

先週は聖職者や師の役割に関して自分が思っていることを書きましたが、ポイントは聖職者や師が信者や弟子と神仏との間の関係のじゃまになってはいけないということでした。今日はそれに関連して、視点の異なることを書きます。

 

よくはわかりませんが、聖職者や師は信者や弟子が自分のいうことを無視して勝手なことを考えてしまうのを好まないかもしれません。自分のいうことに沿った理解をしてほしいと願っているかもしれません。それはそれでいいと思います。私の師はサイババで、直接肉体を通じて対話をしたり、アドバイスをいただいたことはありません。うぬぼれた言い方かもしれませんが、心と心の対話であり続けました。夢は100回はいっていないでしょうが、それに近いほど見ました。言葉のやり取りがあったのはわずかの回数です。私はサイババに関する文献に目を通し、それに反しないように注意しながら人生のさまざまな場面で判断を重ねてきました。約30年にわたるその積み重ねの結果として今があります。サイババは「人は生まれたとき宗教の内にいてもいいけれども、死ぬときはそこから出ていかなくてはならない」というようなことをいっていたと思います。また「ヒンズー教徒はよきヒンズー教徒に、キリスト教徒はよきキリスト教徒に、仏教徒はよき仏教徒になりなさい」というようなこともいっていました。なので私はよき仏教徒であろうとしました。

 

仏教全般について浅く広く理解しようとしていましたが、私の家が真宗門徒だったので、主に浄土系のことを少しばかり知っているような現状です。実際のところ、真宗は瞑想(禅)や礼拝、奉仕などについては特に触れず、もっぱら信心を強調する宗派なのですが、私自身は瞑想を20年続けていますし、毎日仏壇で手を合わせていますし、奉仕にも関心はあります。真宗では雑行雑修は正しくないのですが、私は雑行雑修を取り入れた、むしろ浄土宗的な歩みをしてきた人間です。それは意図的にそうしたのではなく、自らが求めるままに歩んだ道がそうだったのです。浄土真宗的ではなく浄土宗的でしたが、今は真宗が強調する安心は得られていますので、少なくとも私に関しては浄土宗と浄土真宗はそう異なる道ではないのが実証されています。浄土宗的な道を歩んできたけれども、それでも私は自分が真宗の人間だというのは、真宗が絶対的な謙虚さを強調していて、これは絶対に欠かすことはできないと思っているからです。

 

ただし真宗の人間であるといいながらも、真宗の教義から離れたことをこのブログでも書いています。私のような市井の一門徒のことなど実際のところ真宗のお寺の関係者の方は誰も気にしはしないでしょうが。私は一応真宗の伝統をそれなりに尊重してはいますが、さまざまに私を形成してきた日本や他の文化に沿ったものの考え方をしています。自由に思考しようとするならばそうなってしまいます。私は真宗門徒であるということよりも、人間であるということの方が普遍的であると思っていますので、それでいいと思っています。私は自分のことだけでなく、実は他の人に関しても、ある宗教の信徒であることよりも人間であることを尊重してほしいと思っていますが、それは各人の好みに委ねるしかありません。ある宗派から別の宗派へと改宗は可能ですが、人間であるということは一生を通じて変わりません。

 

日本でも生まれて初めてお宮参りをすればそこの氏子とされるかもしれません。クリスチャンの親の子は生まれてまもなく洗礼を受けさせられるのかもしれません。日本だけでなく、生まれてすぐに宗教の枠内に入ることは多くあるでしょう。しかし人が真に誠実に、そして真に自由に思考を重ねていったならば、どこかで宗教の教義と自らの思考にちょっとした差異が生じることは普通にあるでしょう。たとえば私が考えることは、真宗の正統から見れば適切なものではありません。真宗に限らず他の宗派のどこにも受け入れられないこともあるでしょう。しかし私はそれでいいと思っています。たとえば仏教ならその目的は解脱(自由)です。私は自らが少しずつ自由になっているのを感じています。その意味で、教義にこだわるよりも、もしかしたら私の方が仏教の正統なのかもしれません。私は言葉遊びがしたいわけではなく、安心や自由を実際に獲得するような道を歩んできたわけです。宗教の枠内に生きるよりも、このことのほうが大切です。人間であることのほうが大切です。既成の宗教の伝統を破壊する意図はまったくないのですが、それでもある程度年をとったならば、宗派の狭い「枠」を越える程度の成長はあっていいと思うのです。この考えに賛成する人はもしかしたら少ないかもしれませんが、私個人はそれでもいいと思っています。

聖職者、師の役割

 

少し前にカトリックの片柳神父に関する記事を見かけました。こちらです。

shuchi.php.co.jp


片柳弘史著『何を信じて生きるのか』(PHP研究所)の一部を再編集したもののようで、詳しくはそちらを買って読まれるのがいいでしょう。この記事の中で学生と片柳神父が対話されています。その対話の具体的な内容について、どうのこうの思うことはあまりないのですが、一つ気になったことがあります。それは聖職者の役割に関してです。片柳神父はもちろん聖職者で、人々の疑問に対し誠実に答えをかえすことは、普通によくあることなのでしょう。神父の方のみならず、僧侶でもこのような態度は同じなのかもしれません。しかしながら私が僧侶や神父、牧師の方に求めてきたのはこういうことではありませんでした。いえ、悩み深かった頃は人に問い、その問った相手が答えをかえすことは私にもありました。しかしそういうことで私の問題が解決したことはこれまでなかったのです。

 

今はわかります。あくまでも私個人に関してですが、私が求めていたことは目的地を示してもらうことで、その目的地との対話の仕方を教えてもらうことでした。つまり、聖職者あるいは一般に師の仕事は目的地=神、仏を示すことであり、その神や仏と直接対話を重ねることを勧めてほしかったのです。神や仏と自分との間に入ってきてほしくなかったのです。先に取り上げた記事の中では学生の方が「もし本当に神がいるなら、なぜこの世界にはこれほどたくさんの苦しみがあるのでしょう。親に虐待されて死んでゆく子どもを、なぜ神は救わないのですか。自然災害で罪もない人々が死んでゆくのを、なぜ神は黙って見ているのでしょう。」という疑問を示しています。それに対して神父がご自身の考えを参考として述べるのはいいでしょうが、それよりもその学生に神に直接向かって問いかけてみるよう勧めるほうが、時間がかかっても本人の納得する答えを得やすいだろうと私は思っています。その学生が神と直接対話する上で神父の意見は参考になるでしょうし、それはそれでいいと思うのですが、ローマ教皇に聞くよりも神ご自身と直接対話するほうが遥かに実り多く、納得する答えが得られます。聖職者や師は人と神や仏との関係の妨げになってはなりません。

 

ツイッターで見かけたのですが、ソクラテスに次のような言葉があります。
“I cannot teach anybody anything. I can only make them think” - Socrates
(私は誰に対しても何も教えることはできません。私はただ彼らに考えてもらうことしかできません。)
人が人に何かを教えるというのは、もしそれを本当に信じているのならばある種の傲慢かもしれません。私が何かを語ることでそれを聞くものが何かを考えるきっかけとなり、それを通じて人が何らかの結論に達する。このように自分の話を聞く人が内から答えを引き出すよう導くことだけがグル(師)の仕事だとソクラテスはいっているのでしょう。聖職者の仕事は説教ですから、説教を取り上げられれば自らのアイデンティティに関わってきます。何かを語ることはまったく問題ないのですが、問題はその動機です。

 

聖職者や師のいうことを聞く人は、成長してもせいぜいその聖職者や師のレベルまでです。しかし聖職者や師が目的地として神や仏を示し、それとの対話を勧めるならば、人は聖職者や師のレベルを超えて神のレベルにまで達するでしょう。できるならばこのような信者や弟子の成長を望む聖職者や師に出会いたいものです。

 

私は真宗門徒ですので、親鸞聖人の生涯を簡単ですが知っています。親鸞聖人の生涯は苦難の生涯でした。師である法然上人と過ごした時間はわずかで、法然上人と分かれて50年以上もの間、親鸞聖人は一人で思索を重ねてきました。いえ、心の中で阿弥陀様やお釈迦様、法然上人、歴代の高僧方とたった一人で対話を重ねられてきたはずです。法然上人は親鸞聖人に目的地(阿弥陀様)を示し、親鸞聖人は阿弥陀様との対話を重ねられました。親鸞聖人は、自分は弟子を一人ももたないとおっしゃいました。自分が何かを教えることなどできないからです。自分が阿弥陀様と人との間に立ち入ることを嫌ったからです。親鸞聖人の卓越はここから来ていると私は思っています。つまり、現代においても、聖職者や師が信者や弟子に目的地を示し、神や仏との直接対話を積極的に勧めるならば、親鸞聖人レベルの人は山ほど現れるだろうということです。

 

私のように聖職者や師にこのような態度を望む人は日本にはほぼいないかもしれません。聖職者や師の仕事は説教することであると人々は思いこんでいます。自分で考えることのできない人になるのはまったく好ましいことではありません。

文学について

 

私も少しばかりは文学作品を読んだことがあります。若い頃に、ある種はやりというか嗜みの一つとして、試しに読んでみようとほどほどの数の作品を読みました。私は物語の筋を追う読み方をしていて、話が楽しいかそうでないかくらいしかわかりませんでした。いわゆる文芸(文章の芸)を楽しむほどの素養はなく、長じて読むことをあまりしなくなりました。まあまあの数を読んだと思うのですが、今記憶に残っているのは、星野道夫氏の本や沢木耕太郎氏の深夜特急などのような紀行文がほとんどです。純文学は結局のところわからないままです。実は私は非常に驚いたことがあって、それはどういうふうに生きればいいか、あるいは人生の哲学を求めて文学作品を読む人がいるということです。文学に哲学を求めているのです。私にはまったくない発想でした。文学にそういうものを求める人たちが実際に何かを得ていたのかは知りません。今となってみれば、私個人は、文学作品を読んだ時間はかなり無駄な時間だったのではないかという気がしないでもありません。得たというものがないからです。

 

先日「新しい経済」という題で記事を書きましたが、そこでも少し触れましたように、最先端の経済学は少しばかり文学的なようです。経済は一つの物語といえる部分があって、多少なりとも現実を説明しつつも理論の前提である経済人というものが完全な概念ではないので仕方ないところはあると思います。また少し前に新聞を読んでいて日中国交正常化の記事が目に入りました。朝日新聞だったと思いますが、そこには台湾の扱いについて厳密な法律論で合意が得られない部分を文学的表現で曖昧にぼかしたとありました。法律の領域では関係者が完全に合意できていないことに関してはこのように文学的表現が取り入れられることは多々あるのかもしれません。経済学にしろ、法律に関することにしろ、これはこれで一つの知恵であり、このような文学の効用は私は受け入れたいと思います。

 

ただ基本的に今の私は文学を好みません。たとえばコロナ禍ですが、あくまでも私の個人的な見解では科学的にそして政治的に取るべき道はほぼ定まっていると思うのですが、さまざまな意見がメディアを賑わせています。このコロナ禍は医者や理系の大学教授の権威を失墜させましたが、その多くは科学的というよりも私にいわせれば文学的です。うんざりしていました。

 

また少し以前の話になりますが、昭和の時代には今は亡き昭和天皇の戦争責任が話題になることがありました。私も昭和の時代を20年生きてきたのでそのあたりのことは少しだけなら知っています。さまざまな意見があったようです。そして昭和天皇はかつて誰からかは忘れましたが、ご自身の戦争責任に関してご意見を求められたことがあるようです。それに対して昭和天皇は「私は文学的なことはよくわかりません」と答えられたというような話を読んだことがあります。日本人自身の手で太平洋戦争や日中戦争が裁かれたことはないにしろ、一応戦勝国による東京裁判は終わっています。当時の国際法がどのようなものであり、また後の時代の国際法から過去を見たとき当時はどのようにみえるのかなど、私にはわからないことばかりです。しかし日本では多くの議論がなされ、昭和天皇ご自身もその一部は耳にされていただろうとはいえ、「文学的なこと」と表現せざるをえないその気持ちの一端はわかる気がします。

 

つまり現代においては何らかの隙間があれば、そこが文学で満たされるケースが多々あるということです。判断や思考の一時保留です。先にも書きましたように文学の効用はあるものの、あまりに物事を複雑にするのを私は好みません。

 

私は現代において他の芸術に携わるものに比べてなぜ文学者が大きな顔をするのか不思議でならないところがあるのですが、現代の風潮としては彼・彼女らがもてはやされるところがあるのでしょう。私は人生とはシンプルなものだと思っていますので、文学の肩をもつ人がいるのは知っていますが、あまり文学に関わりたくないのが正直な気持ちです。

4つのグニャーナ

 

インドにはグニャーナ、ヴィグニャーナ、スグニャーナ、プラグニャーナという言葉があります。私は知りませんけれども、もっと多くグニャーナという言葉を含んだ複合語がある可能性はあります。私が知っているのはこの4つです。グニャーナは英知という意味で、他の3つもそれに関係するものです。すべて英知に関係していて、この4つをすべてグニャーナ(英知)といっても大きな問題はないような気がします。しかし今日はこの4つに関して個別に私の個人的な理解を述べたいと思います。

 

この4つの中でヴェーダを唱えていて最もよく出てくるのはやはりグニャーナです。一般的に英知、知恵という意味です。単に知能が高いのとは異なり、物事の本質が理解できていたり、人生の知恵を備えていたり、そういう類のことを表現する言葉です。私はこのブログでしばしば書いていますが、行為の道、帰依の道、英知の道というとき、英知の道にあたります。サイババはシルディ・サイババサティヤ・サイババ、プレマ・サイババの三代にわたって化身するとされていて、シルディ・サイババは行為の道を主に説き、サティヤ・サイババは帰依の道を主に説き、プレマ・サイババは主に英知の道を説くとされます。シルディ・サイババサティヤ・サイババはすでに肉体を離れましたが、おそらくですが、未だ正体を明かしていないプレマ・サイババはいま幼少期でこの地上を歩いているのではないかと思っています。シルディ・サイババは行為の本質として信仰と忍耐を説き、この2つがあるところに帰依があるといいます。サティヤ・サイババは帰依の本質として愛と犠牲を説き、この2つがあるところに英知があるとされます。

 

ヴィグニャーナとは何でしょうか? ヴィ+グニャーナです。ヴィは接頭詞です。「離れて」という意味があるようです。また一般にグニャーナは理論知であり、ヴィグニャーナは経験知であるといわれています。このことに即していうならば、一般的な知識(グニャーナ)が与えられて、一旦その理論的な理解から離れ現実においてそれをどのように応用すればいいかを模索する。そして現実世界における実践を通じて、理論知であるグニャーナの理論的枠組を外れることなく、しかし高度な理解として知識が経験的に再編成される。その経験知がヴィグニャーナなのだと思います。グニャーナは理論的であり、かつ初めは一般的な大雑把な理解なのでしょうが、ヴィグニャーナはこの世界の事象の細部へと理解が浸透しています。グニャーナは木の根や幹だとすれば、ヴィグニャーナは枝や葉のように多少具体的な印象を私は持っています。これがインドにおいて正当な解釈であるかどうかはわかりませんけれども。

 

スグニャーナは何でしょうか? ス+グニャーナです。スはやはり接頭詞で「善い」という意味のようです。スグニャーナは比較的簡単です。善い知識、善いことに関する知識です。人は人生において悪い知識ではなく、良い知識を身につけなければなりません。悪い知識を得て人生を無駄にする余裕はありません。可能な限り善いことに関することを知り、それを生活に取り入れて、人間としての人生を贖うのが好ましいと思っています。

 

プラグニャーナについては少しだけこのブログで書いたことがあります。プラ+グニャーナです。プラについては詳しく知らないのですが、広がるという意味があったと思います。グニャーナの広がりです。日本語では般若(はんにゃ)という言葉がプラグニャーナに相当すると思います。風船の中の空気と風船の外の空気があるように、人の外にある意識と内にある意識があります。風船が破裂すれば風船の中の空気と外の空気は一つになりますが、それと同じように人の外にある意識と内にある意識が一つになったものが遍在意識つまりプラグニャーナです。人はエゴによって外界と内界に分割されます。日本人がいう本音と建前はこの内と外の分割を前提とした言葉です。しかしエゴが取り払われたならば人の内界はなくなり、あるいは内界と外界の区別はなくなり、意識は一つになります。エゴがない、つまり清らかな意識、純粋な意識、汚されていない意識、これがプラグニャーナであり、こういう状態の時に人の理解力は最高度に高まるはずです。

 

人はそれぞれですので、行為の道を好む人、帰依の道を好む人、英知の道を好む人がいます。英知をことさら求めなくとも、帰依の道を歩んでいれば英知は自然に伴うので、またそもそも帰依の道が最も簡単なので私は今後も帰依の道を歩み続けるでしょうが、時代の風潮としては英知が今後より強調されるようになるのではないかと思います。そのような時代において、グニャーナ、ヴィグニャーナ、スグニャーナ、プラグニャーナの4つの言葉の基本的な意味を押さえておくと、いろいろな面で多少なりとも役立つのではないでしょうか。

人間のなすべき研究は人間

 

アレキサンダー・ポープという方が約300年ほど前に書いた詩の中に
Know then thyself, presume not God to scan;
The proper study of Mankind is Man.
(次にあなた自身を知りなさい。神が見通しているのを仮定するのではなく。
人間のなすべき適切な研究は人間です。)
という詩句があるようです。自分で自分のことをよく理解することの大切さを強調しています。

 

人間の研究とは何なのか、人はもしかしたらそのこと自体について悩むでしょう。自分のことをよく知りなさいとはいうものの、それがなかなかできないのが人間です。人間の構成要素について調べるだけでも10年以上かかるかもしれません。例えば心理学や医学は絶えず発展し続けています。こだわりだしたらキリがありません。しかしながら今私は人間の研究とは思いと言葉と行動の一致・調和に関係することだと思っています。自分の思いも言葉も行動も少しばかり注意していたらわかるでしょう。そしてそれらがある程度一致しているかあるいはてんでバラバラなのかも。基本的に思いと言葉と行動の間には一致あるいは調和があるのが望ましいのですが、それが難しいならばなぜなのか原因を問うのが人間の研究です。あるいは人間の研究を次のように述べることができます。愛を育み、愛をもって語り、愛をもって行う。愛とは何なのかも研究対象です。私にとっては愛は属性のないもののことです。愛を育むとはどうすることなのか? 愛をもって語るとはどういうことなのか? 愛をもって行うとはどういうことなのか? これらが人間の研究です。簡単なようでかなり奥深いものです。地道に探究を続けていたら、人間理解が少しずつ進んでいきます。ただ当然他にも人間研究の問いの立て方はあるでしょう。

 

私は英語の厳密な意味でmankindとmanの違いはわかりません。kind(親切)なman(人)と生物種としてのman(人間)の違いはありそうです。人間を研究できるのは親切な人(善良な人)であって、動物のような生活を送っている人はまずは落ち着いた生活をおくることを考えるべきで、知性が落ち着いているときに人間の研究が初めて可能になります。

 

善は一般に人生の目的であるとされます。善いことをするために生きている。確かにそうです。悪いことをわざわざするために人間として生まれたわけではないでしょう。善が人間の目的であることを私は受け入れています。ただ一方で善は人間を研究する、つまり分析統合するための道具でもあると思います。何かの作業をするときには真っ暗闇の中では困難なわけです。光があってこそ何らかの仕事ができます。それと同じように、善というものが一時的なものであろうとも、それは一時的に人間存在を照らし出し、人間の研究を可能にしてくれる面はあります。つまり善は人間探究の手段でもあります。真っ直ぐな定規だけがものの長さを測ることができるのであって、曲がった棒で長さを測ることはできません。一時的であっても善であるときに探究がうまく進みます。

 

the proper study about man(人間に関する適切な研究)を続けていたら何に到達するのでしょうか? 私自身がその途上にいるので断言しかねるのですが、思いと言葉と行動の一致が現実となるときには、人間の肉体につきまとう幻影(インド哲学の用語ではマーヤー)は影を潜めていきます。リアルなものがリアルなものとして現れてきます。そういう効果は確かにあるでしょう。また思いと言葉と行動が一つであるならば、それは結局自らあるいは一般に人間存在の一元性を意味します。

 

世俗の勉強でも何かしら発展的なものを希求するならば、人のいうことや単に本に書いてあることを鵜呑みにせず、自分で納得するまで調べます。同じように人間が発展していくためには、人間とはこんなものだという世間一般の観念を単純に受け入れるのではなく、自分が納得するまで調べるべきです。これは霊性の領域における最大の探究つまりアートマ知識を獲得することにつながっていくでしょう。素粒子について研究していたら実は宇宙のことを研究していたというのは現代物理学のことですが、人間の研究は実は単なる人間の研究にとどまるわけではない。私は少なくともそういう感触が得られるまで人間について研究すべきではないかと思っています。