愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

イニシエーション(通過儀礼)

 

イニシエーションという言葉があります。日本語では通過儀礼という言葉が用いられます。ウィキペディアによれば「人間が出生してから成人し、結婚などを経て死に至るまでの成長過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。」の意味だそうです。現代日本では例えば七五三や成人式などがあります。

 

さて、人は人生において時に自らが最も苦手とする事態に直面することがあります。それが何の苦にもならない人にとっては「何でそんなことで悩むのか?」と思えるようなことであっても、それが当の本人にとってはとてつもなく苦手なこと、苦になることというのがあります。しかし次の段階に進むには必ず通り過ぎなくてはならない人生の課題。本来それはイニシエーションというものとは異なるのかもしれませんが、他に適切な言葉が見つからなかったので、この言葉を使わせていただきます。イニシエーションとして他国で行われているものに、割礼や抜歯、入れ墨などがあるようで、これらは痛みと同時に精神的恐怖も伴うことでしょう。また恐怖に襲われながらある儀礼に招き入れられてみると、当初想像していたものとは異なるてん末が待っていたということもあるでしょう。人生の節目節目でそれに似たことが起こります。

 

具体的なことは書きませんが、私もこの1~2年ときにそういう事態に直面してきました。この20年くらいの間の苦労がある人のわがままともいえる思いつきで一瞬にして台無しになってしまいかねない状況です(まだそれから完全に解放されていません)。ようするに自分の人生のまあ大きな部分が私のことをよく知らない人の言動に依存した状況にあるわけです。私が進んで求めた状況ではなく、ある種の義務を遂行する上でこういうものに巻き込まれたわけです。人生設計をまったく新たにやり直さなければならないかもしれず、気持ちの上で大きな負担になっています。場合によっては20年ばかりの人生をまったく無にしてしまうようなことですから、少し大げさですが人生の部分的死を感じます。こういう状況を意図して乗り越えようとするとどこかでエゴが出てきてしまい、できるだけカルマの負債を作りたくない私はそれを避けたいわけです。ストレスも結構大きなものです。結局は何とかやり過ごすしかないのですが、ある種の死を覚悟してそういう状況に望むのはまさに人生のイニシエーションだなと思ったわけです。これまでにもこれに似たつらい状況に直面し何とか乗り越えてきましたが、何度経験してもつらい気持ちに変わりはありません。人間として成長できたのはこれらの苦難のおかげではあり、またこれらはいつかはやってくる死の予行演習でもあるのでしょうが、まったく先の見えない状況に足を踏み入れることになかなか慣れません。高所恐怖症の人は高いところで足をすくませるでしょう。ヘビが苦手な人はヘビを見て身の毛がよだつでしょう。それと同じように、人生においては何度か世界の終末に直面するかのようにどうしようもなく苦手な場面が目の前にあらわれます。おそらく誰でもでしょう。

 

死を司っている神様がいます。日本では閻魔様のことが思い浮かびます。インドではヤマと呼ばれ、それが日本では閻魔になったのでしょう。またシヴァ神も死に関係します。シヴァ神は墓場にいます。閻魔様にしろ、シヴァ神にしろ、そういう神様のもとで通常の人生の流れから切り離されてテストが行われます。次の段階に進むには必ず通り抜けなければならない関門です。学校でテストに合格しなければ進級できないのに似ています。夜明け前が最も暗い時間帯だといいますが、それにも似ています。現代においては過去に比べ恐怖や痛みを伴う社会儀礼としてのイニシエーションは減ったにしろ、実質それに似た状況には襲われます。必ずそこには学びがあるのでしょうが、必死にならなければ学びは得られない切羽詰まった状況です。私には長期間にわたるストレスにさらされながら不器用に耐える愚鈍さしかないわけですが、これまでの人生においてこういうような状況から逃げてこなかったがゆえに、今の自分があると思っています。精神的に成長するまたとない機会ではあるのですが、どうしても心地よい体験ではありません。それを通過したあとの人生がどうなるかはそれにかかっていて、人生が退屈でないのはうれしいのですが、試練であるのも確かであって、今後も何とかそれらの試練を乗り越えていきたいと思っています。

社会主義

 

今日は社会主義について書きたいと思います。とはいっても社会主義の厳密な定義を知りません。ウィキペディアによれば、狭義には資本主義・個人主義自由主義・私有制などの対義語であるとされます。また共産主義社会主義に含まれているという見解もあります。生産手段の社会的共有と管理を目指すものが特に共産主義と呼ばれるようです。私は基本的にism(主義)は何でもあまり好みません。なのでゆるやかな社会主義には多少なりとも検討に値する概念はあるのでしょうが、極端な社会主義あるいは共産主義には先入観としてどうなの?という疑問があります。たとえば、生産手段や富を可能な限り平等にするという考え方があるとします。しかしながら思うに人の欲望というものはそれぞれ異なっているのですから、生産手段や富の活用の仕方は人によってさまざまです。活用の仕方が異なれば、結果も異なります。そこから導かれるのは、格差が必然的に生じるということです。つまり社会主義共産主義が機能するためには、人々の欲望が等しくないといけないという前提が必要ですが、そうではありません。富を平等に振り分けても後々必ず不平等は生じてくるもので、それ(欲望の違いとその結果による富の不平等)を否定することはスターリンなどのような強権的な力の行使を肯定しかねないものです。なので素人から見れば、極端な社会主義あるいは共産主義はうまくいかないのではないかという思いがあります。

 

しかし、上に挙げたことはこの世的な経済に関してです。霊性の世界では様相が少し異なります。人は死に際して、その人の人生の総決算がなされるといいます。一生におけるプラスとマイナス、徳と罪が計算されますが、ほとんどの人は50を平均としたときほんの少しプラスだそうです。51、52、53くらいのものでしょうか。もしかしたらあまりにもひどい人生を歩んだ人はマイナスの人もいるかも知れませんが、多分それでも極端なマイナスではないでしょう。霊的な視点から見たとき人はほとんど平等だということです。

 

シヴォーパーサナマントラーハというヴェーダに「イーシャーナ サルヴァヴィドヤーナーミーシヴァラ サルヴァブーターナーム」(至高なるお方は、すべての知識の支配者であり、全創造物の制御者です。)というマントラがあります。すべての知識、すべての創造物は至高なるお方(神)が支配されているということです。日本では学校で平等に義務教育が行われていますが、人による受け取り方の違いもあって、知識の広がり具合には偏りがあります。ものや生物、人間の分布にも偏りがあります。それらの偏りのすべて、つまり分配具合は神によるものと受け取ることはできます。同じ文章を見ても、人が違えばそこから引き出される結論が異なるのは普通のことです。知識や物の分配に関して人間ができることは一体どのくらいなのでしょうか?また神は人の心に動機を配布するものでもあるようです。私などは意志が弱くて、自ら強い意志を抱くことはほとんどないのですが、ああしよう、こうしようというようなかすかな促しを心に感じることはまああります。そういう動機が神が各人に配布しているものならば、人間は人間の行為にどれほどの責任を伴うのかという問いが生じます。動機だけでなく、義務感をもって果たさなければならないような仕事もどこからか配られているように与えられます。つまり知識や物、人や動機や仕事などは、かなりの部分人間にはよくわからない仕組みによって分配されているように私には見えるのです。ある種の運命論ともいえます。これを受け入れるならば、霊性の世界では(おそらく公平な知性によって)社会主義は実現されているのです。

 

現実社会におけるあまりにも過度な経済的格差を是正することは必要でしょうし、法律に守られている人がいる一方法律の保護のもとにない人もいて、そのあたりの問題は社会正義として解消されるべきでしょうが、霊性の世界においてはそれなりに平等や公平さは保たれているのではないかという思いが私にはあって、なので霊的なものの見方を身につけることも大切に思うのです。私は富や知性やその他の要素において豊かな人はそうでない人を助けるためにそれらを用いるべきだという考えがありますが、多少の格差や偏りはそもそも許容範囲内です。

存在と記号

 

前々回内なる空間について触れ、そこで自己同一化に触れたエンデの言葉を紹介しました。そこでエンデは自己同一化といっていますが、心理学的に見てこれが投影とどう異なるのか厳密なところは私にはよくわかりません。もしかしたら自己同一化はそのことに対する意識があり、投影は無意識であって他者と自己の混同があるのかもしれません。そのあたりに関する疑問が自分ながら思い浮かんだのですが、詳しく知りたい方は適切な心理学の本を探されるのがいいと思います。

 

さて、内なる空間=空所に関してもう少し述べておくつもりです。この内なる空間の開発は意識の浄化といっていいものですが、一般に霊性修行(サーダナ)と呼ばれるものの目的がこの意識の浄化です。また思いと言葉と行為を調和させるよう努力する時、それらは論理的厳密さをもって一致するというよりも、音楽における和音のような意味での調和であるでしょう。この思いと言葉と行為はカテゴリーが異なっていて、たとえるならば、床と壁と天井のようなものです。これらが調和する時、そこには「空間」が確保されます。シャベルで地面を掘ると空間ができるに似て、ごくごく小さなことでも思いと言葉と行為を一致あるいは調和させるように試みていると、心の内に空間が少しずつ確保されていきます。そして思いと言葉と行為によって確保された領域が人間存在を真に支える役割を担います。この一連の作業は人を少しずつ健康にしていきます。

 

この作業が長期間にわたって続けられると、心の中=内側に何もなくなってきます。少なくとも思いは減っていきます。人間は体と心とアートマの組み合わせですが、心がなくなってくると、あとに残るのは体とアートマです。そしてそのとき、体は単なる仮面あるいは文楽に似た操り人形のようなものになります。つまり一つの記号です。人間は目に見えないアートマにシールが貼られたものに他なりません。あるいは幽霊にたとえられるでしょうか?アートマが存在でシール=体が記号です。

 

先週も取り上げましたが、チャマカムというマントラがあります。これは人間が願うべき一連のもので構成されているマントラです。人間の構成要素の全体を示しています。その最後のあたりで、「1を与えて下さい、3を与えて下さい、5を与えて下さい、7を与えて下さい、9を与えて下さい、11を与えて下さい、…、4を与えて下さい、8を与えて下さい、…」と数字の羅列が続きます。インドでは1にも3にも4にもそれぞれの数字にはそれなりの文化的意味があるらしく、その文化的意味が指し示しているものを与えて下さいという祈りであるという解釈がとられています。しかしながら、インドの文化的伝統をよく知らない私からしたら、1、3、5、…、4、8、…等の数字は記号の最たるものでして、つまりは私には「私を記号にして下さい」という祈りに聞こえるのです。各人間は一つの記号になることで人生を成就するのかもしれないと、このマントラを唱えていてしばしば感じます。

 

記号はデザイン=design=de+signでもあり、つまり引き算によって記号となるものでして、心を取り除くことで人間は記号あるいは象徴となり人生を終えるのでしょう。記念コインを集めるのが好きな人がいますが、神様も密かに人間が記号=象徴となったところのその象徴を集めて楽しんでいるのかもしれません。

 

 

超越について

 

超越というのは人間にとって一つのテーマではないかと思います。重力に引きずられた肉体とその制限の影響を多分に受けやすい頭脳が所与の条件を超越したいという願望をもつのはある意味自然なことです。今日はこの超越に関して哲学的な方面から書いてみます。

 

私は超越という言葉を考えるとき、カントのことが思い浮かびます。私は西洋的な厳密な学としての哲学の素養が少し欠けているので、カントの議論についていくことは満足にできず、カントの言葉とそれに関する適切と思われる解説を見比べてカントをごくわずかばかり理解してきました。認識のプロセスを明らかにするのが超越論的意識であるという人がいますが(超越論的ということ:カントの純粋理性批判)、今日私が書くのも認識のプロセスに関してです。認識のプロセスに関しては30年前にも書いたことがあるのですが、それとは少しばかり視点を変えたことを述べます。

 

「カント以前のヨーロッパ哲学はすべてカントに流れ込み、カント以後のヨーロッパ哲学はすべてカントから流れ出した」という人がいるほどヨーロッパ哲学においてカントは欠かすことのできない人です。そのカントの哲学の素晴らしさは経験論と観念論の統合である、と私は聞いたことがあります。経験論とは哲学的真理は経験からもたらされるという説で、観念論は観念からもたらされるという説です。この経験論と観念論が齟齬なく統合されたがゆえにカントは超越について十分に語り得るようになったのだと思うのですが、その一つのバリエーションを私は語ることができます。

 

先週私は内なる空間に関して述べました。その内なる空間=空所は、私の見解によれば経験の産物です。少なくともその純粋さは経験の産物です。人生において内省と試行錯誤を繰り返して生きていると空なる領域が広がっていきます。世事に関する知識を蓄えるのも経験によりますが、より本質的なのは内なる世界=空間の開発こそが経験がもたらす最大のものでしょう。

 

有名なヴェーダマントラにルッドラムがあります。ルッドラ=シヴァ神を称えるヴェーダの一つです。ルッドラムはナマカムとチャマカムの2つからなり、ナマカムはよくないものを手放すことを教え、チャマカムはよいものを願うことを教えるという解釈があります。チャマカムでは人間にとって有益なものが羅列されていて、それは人生の構成要素の全体そのものといえるのですが、つまり私の理解では、ナマカムに従ってこの世への執着を少しずつ手放してゆけば、チャマカムの祈りの結果真の人間として生まれ変わることができるということだと思います。giving up=手放すこととtaking=受け取ることのバランス(give and take)が重要になります。人間は、この世を手放すことで内なる世界=空間に基づいた人生を勝ち得ます。

 

内なる世界=空間におけるさまざまな作業を通じて、人は時に直感=idea=観念を獲得します。適切な心の世界・空間を確保した人=経験を積み重ねた人が観念を獲得してそれを育み、人生に応用し概念化したならば、それは経験論と観念論の統合でしょう。つまりそこに超越の可能性があります。たとえばある哲学の本を読んでいて、自分の心にふさわしい自然な形で一瞬のきらめきのようなアイデア=観念がきざしたならば、それがすぐに理論付けできないとしても、超越的であることが多いものです。

 

私個人の経験からいえば、より重要なのは心=内なる空間・空所の純粋さです。これが確保されているならば、適切なものなら何を読んでも、何を見ても、何を聞いても何らかのアイデアが得られます。小さな誰もが思いつきそうなアイデアから、世界で自分しか気づいていないようなアイデアまでさまざまですが、少なくとも自分のこれまでのありようを超越するきっかけとなるでしょう。これらのアイデア=観念を生活に取り入れることで一層心は深まり、そしてそれがまた次のステップへとつながります。人生の向上の好循環が生まれてきます。人生に誠実に向き合うことを通じて経験を重ね、よき人、よき書籍などと出会うことが大切です。

 

内なる空間

 

内なる世界、内面、心の中、内なる空間などさまざまに表現できますが、今日はそれにまつわることを少し書きたいと思います。

 

「上手な役者はペルソナとなり、仮面となります。まさに、そのことによって初めて、彼は観客に自己同一化を可能にさせるわけです。すなわち、観客は、その仮面の背後の空所を、自分の自我で満たすことができるのです。観客は、その同一化を、いわば外部から体験します。」 (ミヒャエル・エンデ 『ファンタジー神話と現代』)

 

私は演劇を多くは見たことはありませんし、映画と演劇は異なるとして映画もそれほどは多く観てないでしょう。しかしそうであっても、私は上に取り上げたエンデの言葉の意味はわかります。一般に演劇でなくても、普段の人間関係においても上に書かれているようなこと(自己同一化)を無意識にしている人はいそうです。役者あるいは普段の人間関係において、目の前にいる人の背後が空所である場合があります。いわゆる感情移入ができるとでもいえるのでしょうか?目に見えるものがすべてでかつ十分なケースです。逆に私が私の空所を他人の自我で満たされることもあったと思います。たとえば何でか理由はわからないのですが、笑うべきところでないようなところで私は人に笑われることがあります。

 

柄谷行人氏であっただろうと思うのですが、彼は批評家として知られており、彼は批評家の仕事はある種の交通整理のようなものだといっていたように記憶しています。交通整理は交通量が多いところで行われます。市場は商品がたくさん集まるところですが、交通量が多いところといえば、一つに交差点があるでしょう。多くの人や車、自転車などがそこで行き交います。私はさまざまな意見が表明されている中で、それらを上手に整理することは苦手です。しかしながら私は、私の書いたものを通じて、読む人と誰かあるいは読む人と何かとの出会いがあればいいなと思っています。私の書くものに比較的多く固有名詞が出てくるのにはそういう意図もあります。つまり私は交通整理はできないけれども、一つの交差点のような場を提供したいという思いはあるのです。それはエンデのいうペルソナ、仮面の背後に似て、私の書くものの背後にある空所です。それは実際のところ私の内なる空間と多分そう異なることはないのではないかと思います。誰かと出会い、どこかから来てどこかへと向かう通過点としての場=交差点。

 

適切な何かを観たり、聞いたり、読んだりするとき、人はそれらを経験しながら同時に自らも作業をしているはずです。作業が可能であるならば、与え手と受け手の心は通じているといえます。内なる空間を提供する者が愛で満ちているならば、その場において何かと何かが確実に結びつきます。世界が一つになるプロセスとはこういう地味なことの積み重ねの結果でしかないのかもしれません。心の内といえばその人だけのもののようで、確かにそうではあるのでしょうが、しかしあたかも部屋を貸し出すようにそこを他者に一時的に貸し出すことはできます。私は若い頃そういうように著者の心の中に入り込むようにして文章を読む傾向が強かったので、今でも無意識にそうしているかもしれず、また他の人から自分が書いたものを読まれるとき、それを前提として文章を書きます。大切なのは人の書いたものの内容よりも、その人の心の中=内なる空間で遊んだ記憶なのでしょう。心と心を共有することが遊びの本質だと誰かがいっていましたが、子どもだけでなく大人もそういう遊びを楽しめる内なる空間をどこかに探し求めているのだと思うのです。

八正道

 

今日は八正道について書きたいと思います。お釈迦様の御教えの中心となるものです。ただし日本の仏教宗派においてこの八正道を生活実践の中心においているところはもしかしたら少ないかもしれません。しかしながら仏教を語る上でこの八正道は避けて通れないでしょう。

 

父が読んでいただろう本に『増谷文雄名著選Ⅱ 親鸞の生涯 歎異抄 親鸞の思想』があります。私は親鸞聖人よりもむしろ蓮如上人や妙好人に惹かれるところがあったので、親鸞聖人について書かれた本はそれほどは読んだことがありませんでした。しかしこの増谷氏の本に少し目を通してみて、とてもわかりやすいという印象があり、まだ読んでいる途中ですが、親鸞聖人に関して理解が深まるのは間違いないだろうと思っています。増谷文雄氏のこともまったく知りませんでした。この増谷氏の名著選が面白いので、アマゾンで増谷氏の本を検索し、評価の高かった『仏教百話』も注文しました。こちらも面白いです。増谷氏は阿含経原始仏教、あるいは小乗仏教に関係するよう)と日本仏教の祖師方に関する著作が多いようで、仏教の原像とでもいうものに少しばかり関心がある私も興味深く『仏教百話』を読んでいます。そこにも書かれていましたが、やはりお釈迦様の中心となる教えに八正道があります。

 

八正道はお釈迦様が求道に入られた原因である苦を取り除く解決策です。また実際のところお釈迦様が悟りを開かれたのは苦行を捨てて中道に至ったからなのですが、中道とはすなわち八正道のことでもあるようです。中道は苦行主義と快楽主義のどちらにも偏らない生き方です。八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つのことです。場合によっては正聞など他の要素が加わることもあるようですが、そのあたりのことは今はおいておきます。この八正道については多くの理解、解釈があることでしょう。私はそれらに精通しているわけではありませんので、今日書くことは私の個人的な理解、見解になります。

 

正見。まずは見ることから始まります。感覚器官による外界の受容です。現代的な用語ではインプットです。外界を見ることでさまざまな思いが起こります。見るものによって思いが異なります。私はかつてこのブログで正見とは色眼鏡なしで裸眼で物を見ることではないかと書いたことがあります。できるだけ偏見なく物事を観察し、そしてできるだけ清らかなものを見ること、これが正見だと思います。そこから思いが生じ、思いから言葉が生じ、思いと言葉から行動が生じます。この3つが正思、正語、正業に関係します。思いと言葉と行動の3つが邪でなく清らかであるならば、正思、正語、正業といえます。正命は正しい生活です。思いと言葉と行動を一致させる生活をしていたならば自ずと生活は適切なものになるでしょう。日々の義務を適切に果たすことも正しい生活でしょう。正精進は原語はサムヤク サーダナ(正しいサーダナ=霊性修行)のようで、つまり正精進は私にとってはサーダナを行うことです。称名、瞑想、奉仕、礼拝などなどです。正念は正しく念じること。これもさまざまな解釈はあるでしょうが、今私は正しく人生の目的を定めそこから思いを離さないことの意味に解釈しておきます。人生の目的には自らが思い定めている神仏の御名や御姿を含みます。そして正定は思い定めている目的地への誠実な歩み、あるいはそこに到達することです。以上が私にとっての八正道です。

 

中道は八正道のことで、中道は苦行主義と快楽主義のどちらにも偏らない生き方だと先に書きましたが、八正道を意識して実践するかどうかは別にしても、しかし多くの人に中道は勧めたいと思います。苦行主義にも快楽主義にもどちらにも弊害があるでしょう。それは仏道においてだけでなく、宗教とは関係なく普通の人の日常生活においてです。苦行主義にも快楽主義にも陥らないように心がけ、しかしそれが困難に感じるときは八正道を思い浮かべればいいのかもしれません。八正道は現代生活を改善するのに適切な方法論を提供すると思います。欧米で禅や瞑想をもとにマインドフルネスが盛んになり、それが日本にやってきましたが、八正道が欧米で見直されて日本にやってくるのを待つのではなく、日本人は自ら八正道を振り返り、現代に取り入れていくことができます。

国の目的

 

国(country、nation)は何のためにあるのでしょうか? 私が生まれた頃から、いえ何千年も前から国というものがあるので、国の存在は人々にとって当然のようなところがあります。現代に生きる一日本人として、あくまでも個人的な印象ですが、国は構成員(主に国民)の利害調整をし、安定的な社会を育み、古くからの文化を維持発展させるためにある、と何となく思います。それほど間違った国家観ではないでしょう。しかしここには他の日本人と同様一つの欠けている視点があります。それは国の外側にあるもの、つまり世界です。

 

キリスト教イスラム教、仏教のような宗教が民族や国家を超えて受け入れられる世界宗教になった理由について、それらの宗教は人々に一つの世界像、世界観を与えたからだという説があります。私たちの通常の素朴な認識の範囲を超えたところはどうなっているのか?そのことに対する答えを与えているから、特定の宗教が世界宗教になったのだとある人は唱えます。私も普通の日本人とそうは変わりませんので、日本の外の世界に関していつも関心をもっているわけではなく、自分の生活のことやせいぜい日本国内のことに関心が限定されがちなのは否めません。しかし国の輪郭を思い描くには、内側からだけでなく外側からも規定される必要があります。

 

サイババの言葉に次のようなものがあります。
「価値は教育のためにあります。教育は人生のためにあるということを、よく覚えておきなさい。人生は愛のためにあり、愛は人間のためにあります。人間は奉仕のためにあり、奉仕は社会のためにあります。社会は科学のためにあり、科学は国家のためにあります。国家は世界のために、世界は平和のためにあります。私たちは、この平和を獲得しなければなりません。」(『真実の探求』(p215~216)
この言葉には多くの意味が含まれていますが、今日は国に関係する部分を取り上げます。

 

「社会は科学のためにあり、科学は国家のためにあります。国家は世界のために、世界は平和のためにあります。」私たちはさまざまな社会的活動を行っています。それらの社会的活動から科学が抽出されます。社会科学や言語活動に基づいた人文科学だけでなく、特定の集団の特定の社会活動が自然科学に寄与していることも知っています。そしてそれらの科学が国家を支えていきます。そして国家の目的は世界のためになることであり、世界は平和を希求している、これがサイババの見解です。

 

国を家族に例えるのは少しばかり問題があるかもしれませんが、家族が家族だけで存在しているわけでなく、家族は家族外の人々と関わることで維持されます。それと同じで、国はおそらく原理的に見ても一国で存在できるものではないと思われます。他国との関わりが不可欠であり、人間が社会的存在であるのに似て、国も”社会的存在”であるといえそうです。家族生活が適切に維持されていてこそ、家族のメンバーは社会的に機能しやすくなるように、国もある程度の自立が確保されていてこそ、他国との関わりが機能します。

 

国が存在する目的は世界に貢献することです。さまざまな貢献の仕方があるでしょう。経済的貢献、文化的貢献、社会的貢献などなど。国の存在を考える際、私にとっては日本が母国ですが、日本が他国とどのように良好な関係を維持し、他国に貢献できているかを私は政治に期待しているところがあります。もちろん、当の日本国民が幸せで有能であってこそこれは可能です。このサイババの言葉に基づく私の観点は少しばかり特殊かもしれません。日本国憲法の前文を見た場合、他国を尊重する旨は書かれていても、他国に貢献することに関しては直接的には書かれていないように思えるからです。

 

世界に貢献するというとき、決して一部の国に見られるように他国の主権に干渉したり、価値の押しつけを念頭に置いているわけではありません。ただ日本人が母国である日本を尊重するように、他国民が母国を尊重するのに状況に従って手を差し伸べることが必要なのではないかというわけです。いわゆる奉仕活動に馴染みのない人が多い日本においては、他者を助けるということがどういうことなのかわかりにくいことがあるかもしれず、従って他国に貢献することについてもピンとこない点があるかもしれません。しかしながら、日本国憲法前文において、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」ならば、日本は世界のためにあるという意志を少しでも確保することは大切でしょう。世界にとって、他国にとって、真の友人であろうと努めることです。こういう観点は今後ますます重要になってくると思うのですが、どうでしょうか?

人生の目的2

 

私のブログを検索していただければわかりますが、私は部分的にですが「人生の目的」について何度も書いてきました。ただ「人生の目的」の表題のもとブログを書くのはちょうど10年ぶりです。ちょうど10年前の2012年5月30日に記事を掲載したようです。

aitasaka.hatenablog.com


人生の目的について特に新たに付け加えることはないのですが、少しばかり今までとは異なった観点から人生の目的の必要性について考察してみたいと思いました。

 

私のツイートですが、最近次のようなツイートをしました。
「戦略の欠如を戦術で補うことはできない、と誰かがいっていたけど、人生に目的がないということは戦略の欠如で、一生懸命何かに取り組むということは戦術であって、つまり一生懸命何かに取り組んでも人生の目的がなければ不完全だということがいえます。」
「戦略の欠如を戦術で補うことはできない」との言葉は誰のものかはっきり記憶がないのですが、これは戦前の日本軍の分析をもとに述べられたコメントだったような気がしています。旧日本軍は太平洋戦争において適切な戦略もないまま多くの日本人と他国の人を犠牲にしましたが、それへの反省がもとにあります。この言葉はもしかしたら上野千鶴子氏が紹介していたのを目にしたのかもしれませんが、まったく確かかどうかわかりません。戦前の日本軍に限らず、失われた30年ともいえそうなこの30年間、バブル崩壊によって国の目標、目的を見失い、もしかしたら戦術といえるものはあったかもしれませんが、確かな国家戦略なしに過ごした30年間だったのではないかという気もします。この2年間のコロナ対策にしても、何をゴールと政府がみなしているのか私にはまったく伝わってきません。戦略の欠如は他の何ものによっても補うことができないもので、太平洋戦争時もそうでしたが、国民の多くのリソース(資源)が適切に活用されてこなかった、努力が正しい方向へと向けられなかったという気がしています。それほどに戦略というものは重要です。

 

私なりの見解ですが、ここで少し戦略と戦術というものについて説明しておきましょう。私の一般的な理解ですが、戦略、戦術という言葉は戦争において用いられるだけでなく、今では企業経営においてもよく用いられているようです。しかし企業経営だけに限りません。戦略は一般にある目的を達成するために、あらかじめさまざまな問題点や課題を抽出し、それらをどう乗り越えていくかというようなことを描いた全体の見取り図、計画のことです。戦術とは、戦略の実行においてさまざまな局面に直面しますが、その個々の局面において具体的にどう課題を解決していくかということです。私の知人が戦略と戦術の違いについて、大雑把ですが、戦略は目的に関係することで、戦術は手段に関係することだと述べていました。

 

私は「人生に目的がないということは戦略の欠如で、一生懸命何かに取り組むということは戦術であって、つまり一生懸命何かに取り組んでも人生の目的がなければ不完全だということがいえます。」と書きましたが、では人生の目的は何だろうかということです。少し前に『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)という本が話題に上がりました。この本は古くから読まれているもので、長年にわたって人生の目的について人々が悩んでいることがうかがえます。私はこの本を読んだ記憶がないのですが、この本を読む人の気持ちはわかります。

 

私が受け入れている人生の目的はインドでいわれてきているように、「ダルマ(正しい倫理的行動)、アルタ(富を求めること)、カーマ(欲望、特に子孫をもうけること)、モクシャ(解脱)」です。人間が人間の名に値するものとして、人間的行動であるダルマは必要です。富を否定する人もいますが、社会や家庭、個人が適切に機能するために富を得ることは必要です。子孫を残すことに関してもそれを人生の目的に含めて問題ないと思っています。最後が解脱です。解脱に限らず、一般に諸宗教が提示する理想的な最高のありようを目指すことといっていいでしょう。あまり深く考えることなく、私はこの4つを受け入れることができます。他にも人によっては「愛」のように少しバリエーションの異なる目的をもつこともできるます。誰にも語っていませんが、私には固有の人生の目的があります。

 

低い目的・目標は罪であるといわれますが、人生の目的を掲げるなら、一生をかけるに値する実際達成できるかどうかわからない高い目的を掲げるのがいいと思います。私はすべての人が解脱を目的に掲げてもいいと思っています。適切な手段というものがあろうかと思いますが、どんな人でもそれは達成しうると思います。まずは人生の目的を掲げて、その上で人生の諸段階において何をなせばいいのか細部を詰めるのをおすすめしたいです。

一元(一体性、unity)の印

 

先週は「唯一者のみが存在する」と題して書きました。たぶんに私の経験の伴わない哲学が中心でした。私は知っていますが、体験のない哲学を延々と語る人はまあいます。できるだけそれは避けるように心がけてはいますが、たまにはそういうこともあります。二元論から一元論への一つの道筋を知ることだけでも意義は少しあるでしょう。

 

さて、今日は自分が一元論に立脚できているかどうかの一つのリトマス紙、テストについて語ります。
Sri Sathya Sai Baba Officialの4月20日のツイートに次のような言葉がありました。
The absence of harmony in thought, word and deed in each individual, is reflected in the lack of unity among different individuals. -  #SriSathyaSai
(思いと言葉と行為が各個人において調和を欠いているとき、それは異なる個人間の一体性(unity)の欠如を反映しています。(サティヤ・サイ・ババ

 

唯一者のみが存在するとき、その唯一者を神と呼ぼうと自分と理解しようとそれはどちらでもいいわけです。一つのものであって、ただ呼び名がたくさんあるだけです。唯一者しかないとき、人が恐怖を感じることはありません。恐怖は通常自分とは異なる何かに対して感じるものだからです。なので、恐怖のあるなしは一元論に立脚できているかどうかの簡単なテストです。

 

もう少し詳しく述べれば、ある人が完全に一元論に立脚しているとき、その人は嘘は言わないでしょう。言う必要がないわけです。さらにはその人の思いと言葉と行動には完全な調和があるはずです。思う通りに語ることを妨げるものはないし、語ることを行為に移すことに躊躇する理由はないわけです。しかしもしある人の思いと言葉と行為に調和がない場合、それは何を意味しているでしょうか?

 

私は完全には一元論に立脚できてないのでわかります。たとえば私は思ったことを語らなかったり、適当な言葉でごまかすことがあります。このブログでは思ったことを書いていますが、普段日常的に顔を合わせる人にこのブログで書いていることをペラペラ喋っているわけではありません。日常生活では何かを語るとき文脈を大切にしているからですが、しかし日常生活においてこのブログに書いてあるようなことをいっても理解してくれる人はあまりいそうにないからです。このブログを読んでくださっている方々は多少なりともこのブログが扱っていることに関心があるのでいいのですが、世間一般の人は必ずしもそうではありません。まったくの嘘をつくというより、思っていることを相手に伝える適切な言葉がすぐに見つからないときにごまかすということです。可能な限り思っていることを適切な言葉に表そうとはしていますが、努力しているものの、十分な能力が私にないわけです。ある意味、私は人に対して異なることをいっていることになります。それは私の周囲において社会が分断されているともいえます。私にとって社会が等しいものであるならば誰に対しても同じことを言えるでしょうし、しかしそれができないとき、私は分断化された世界に生きているといえます。

 

私の例のように、思いと言葉と行為の間に時と場合によって調和がないならば、それはその人が一元論に立脚していないということを示しています。逆に言えば、ある人が二元論から一元論へと進みたい場合、それはある種の苦行といえるものでしょうが、思いと言葉と行為をいつも誰に対しても調和させるようにすればいいわけです。この意味で、「一元論=思いと言葉と行為の一致」なる等式が成り立ちます。一元論は価値ある目標になります。またこれなら一元論は単なる哲学ではなく、実践的な生き方ということができます。

 

そもそも論なのですが、唯一者しかいないならば人はそれほど多くを語らないように思います。多分二元論の人に比べれば、一元論の人の言葉数は少ないでしょうし、口に出す言葉だけでなく心の中のおしゃべりも少ないものと思われます。

唯一者のみが存在する

 

少し前のブログで霊性の特性として「すべては内在する」、「出発点に戻る」を挙げましたが、今日はもう一つそれに付け加えます。それは「唯一者のみが存在する」です。これに関しては私の体験が追いついていないので半ば信念といっていいでしょう。しかし哲学としては太古から主張されていることです。

 

「誰が、一なる者(エーカム)からこのあらゆる多様性を創ったのでしょう? その答えは、「多様性はまったく存在していないので、この質問は成り立たない」というものです。この「多」は、人が作ったものでもなければ、力や衝動、連鎖、状況、偶然が作ったものでもありません。 「多」は存在しません! 「一」は「一」のままです。あなた方が、それを「多」と間違えているのです。誤りはあなた方にあります。あなたの見方を正しなさい。あなたの迷妄を取り除きなさい。」(サティヤ・サイ・ババ 1962.11.24)

 

サイババによれば、私たちが見る多様性は存在していないようです。それはただ多様性に満ちているようにみえるだけのようです。つまりこの世界(宇宙)が存在する以前、それは自らが生まれる前の母の姿を想像するようでもありますが、私は神あるいは絶対者としかいいようのない存在があったと感覚します。あくまでも私の抱く概念としてはそれは唯一の存在でした。そして科学ではビックバンと呼ばれるような状況が生じ、世界(宇宙)が現れました。それは見える限りでは今もそうであるように多様なのでしょうが、しかし見えるという属性(そしてそれによって惑わされること)が加わっただけで唯一であることは変わってない、そういうことなのだと思います。宇宙が誕生する前は単なる白いスクリーンで、宇宙が誕生した後は光が当たり映画が上映されているスクリーンに当たるでしょう。映画が上映されていない白いスクリーンも、映画が上映中の色のついたスクリーンも変わりはない、つまり「一」は「一」のままであるということです。

 

多様性と一体性(一つであること)に関して、次のような話を聞いたことがあります。「帽子が革でできていて、ベルトが革でできていて、靴が革でできています。帽子とベルトと靴は異なるものつまり多様ですが、革は一つです。この世のありとあらゆるものは異なって見えますが、すべては同じものです。ただ、同じ革でできているといっても帽子を履き、靴を頭に載せる人はいません。この世のすべては同じものですが、見た目や形、性質によって扱いが異なることはあります。」

 

例えば次のように考えることもできるでしょう。私は人間として一つ(一人)の存在です。しかし私の体は何十兆もの細胞でできています。細胞は多様ですが、多様であってもすべては一つです。私はその時の精神状態によって、世界が自分の体のように感じることがあります。そのときすべては一つであるという実感に近いのでしょう。そういう精神状態において他者をどのように捉えればいいかということですが、世界という一つの体の中の一つの細胞と捉えることがあります。受け止め方によっては、世界には70億人がいて、私は70億の細胞で構成されている一つの体だと思うことは可能です。

 

あるいは多様性または他者に関しては次のように考えることもできるでしょう。それは唯一者を映し出す鏡にすぎないと。家族は社会を映し出す鏡であるという言葉を聞いたことがあります。祖父母、父母、子どもの家族において、互いは互いを通して社会の一面を見ることができるでしょう。それと同じように、この世にある多様性とはそれぞれ唯一者を映し出す鏡であると受け止めることはできます。多様性があるコミュニティで不調和を示すならば、それはその多様性を入れる容器としてそのコミュニティが小さすぎるだけなのかもしれません。

 

上に少しばかり論じたように、哲学としては「唯一者のみが存在すること」は受け入れることができます。これを実体験として受け入れるには、私は世界が自分の体のように感じることを土台にしていきたいと思っています。一元論それも不二一元論が何の役に立つのかという批判は多く聞かれます。それは言葉遊びなのではないかと、社会の役には立たないのではないかと。今の時点で私はこれに対して大きな反論はできませんが、例えば世界を自分の体のように感じ、その上で自分が整えば、あるいは自己コントロールができるならば、それは漢方薬に似て、世界全体をととのえるのに役立つのではないかという思いがあります。現時点ではそれは信念のようなものではありますけれども。サイババはかつて、「自分自身でいなさい。それが奉仕です」といっていたような気がします。それは真実であるという気はするのです。

法句経

 

私は仏教徒真宗門徒ですので、仏教に関しては普段真宗関係の文献を読むことがほとんどです。若い頃は仏教でもさまざまなことに関心をもってはいたものの、あまりにも広大な領域なので、結局自分の家の宗教に関する文献中心になりました。真宗の文献を読んでいて気づきを与えられることが多いのでそれで満足しています。真宗に関しては少しばかりこのブログで触れたことはあります。おそらく他のどんな宗派でも同じように何らかの学ぶべきことがあっておもしろいのでしょう。

 

さて買ったときのことを覚えていないのですが、書棚に岩波文庫の『ブッダの真理のことば 感興のことば』がおいてあって、しばらく前から時々手にとって読んでいます。「真理のことば」はダンマパダの中村元氏による日本語訳で一般的には法句経の名の方が知られているのではないかと思います。26章423の詩句からなるお経です。一つ一つの句は短く423といっても岩波文庫で60ページほどです。以前読んだときはそれほど思うことはなかったのですが、最近読んでいると味わい深い句が多いのに気づきます。いくつか挙げてみましょう。

www.amazon.co.jp

 

19 「たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。―牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類には入らない。」 実行の伴わない言葉は怠りにすぎないというわけです。そういう部類の人は霊性の領域にある人ではありません。これを避けるための有効な手段は、行った後にそれを語ることです。
43 「母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。」 それが母や父や親族よりも優れたことをしてくれるならば、正しく向けられた心を確保することは母や父の庇護から自立することも意味します。たとえば人生の目的を理解していて心がそれを保っているならば、あるいは仕事をしていて心が仕事の目的に焦点を合わせているならば、半分はその目的が達せられたといっていいのかもしれません。
145 「水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎み深い人々は自己をととのえる。」 自己をととのえる、つまり自己のコントロールは慎み深い人に可能であるようです。日々の生活において自分のやっていることを慎重に振り返る時間は大切なのでしょう。

 

他にもたくさん心に響く詩句があります。お釈迦様が短い言葉で人生に必要なことの要点を示してくださっています。この本の後半は「感興のことば」(ウダーナヴァルガ)でこれは33章147ページあります。同じように短い詩句からなっています。

 

私はツイッターをするのですが、何となくお釈迦様の短い句、偈はそれに似た印象をもちます。長いお経はそれなりにいいのですが、「真理のことば」や「感興のことば」のように短いものもそれなりのよさがあります。外出時にカバンに入れて少し時間があるときに目を通すなどできます。他にも短い詩句からなる聖典類には、私が読んだことがあるものでは、歎異抄やバガヴァッド・ギーター、菜根譚などがあり、少しばかりニュアンスに違いがあっても、どれも人生を深めるのに役立つものばかりでした。長い文章をたどる学習もいいのですが、短い詩句をさまざまに味わうのもよさがあります。私は若いときは長い文章を読むことが多かったのですが、最近は幾通りもの解釈を許してくれる豊かな意味を含んだ短い詩句を好んでいます。短歌や俳句の文化のある日本では短い詩句を味わう方が好まれそうな気はするのですが、どうなのでしょうか?