思惟

 

先週はエデュケアつまり内から引き出すことについて触れました。今週は内から引き出すテクニックといっていいのでしょうか、それにまつわることを少し書こうと思います。

 

浄土真宗では正信偈という親鸞聖人が記された詩を拝読することが多くあります。これは親鸞聖人の御教えの要約のようなものにあたり、浄土真宗の御教えを知るには正信偈の内容を知るのが手っ取り早いのではないかと思います。大無量寿経の中にもあるでしょうが、正信偈の中に「五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)」という部分があります。法蔵菩薩が五劫もの長い間思惟を重ね48願を完成させたという意味です。劫はインドの時間の単位で、いろいろ説はあるようですが、その一つに「四十里四方の大きな固い岩があります。その岩の上に三年に一度、天女が舞い降りてきます。その時軽い天女の羽衣と岩がこすれて、岩の表面は減ります。そしてこの四十里四方の岩が、三年に一度の天女の羽衣との摩擦ですべてなくなってしまうまでの期間、それが一劫です。」(「正信偈もの知り帳」参照)という定義があります。ちょっと気が遠くなるような時間の長さです。五劫は劫が五つ集まったもので、それだけの長い期間にわたって法蔵菩薩は思惟し続けてきたということになります。この思惟ですが、多分思考とは意味が異なるものと思われます。私は先週漫然と頭が働いている、頭が対象についてまとわりついていると書きましたが、それは感覚としては思考というより思惟に近いものです。思考の対象をなでているのに似ているからです。

 

思考の対象を契機として意識に内在する知識、純粋な思いなどを引き出すことは、化石を掘り出すのに似て地道な作業です。少しずつ 少しずつ意識を探索します。その一歩一歩は思惟によって導かれているといっても良さそうです。ならば法蔵菩薩は五劫思惟によってエデュケア(内なる真理を引き出すこと)に携わっていたともいえます。


 Have the thaapam (the deliberation, the decision, the discipline) first, that is better than paschaath-thaapam, (regret forthe mistake made). Arjuna had thaapam, he saw the consequences even before the battle beganand wanted Krishna to advise him what to do. But, Dharmaraaja, the eldest brother, had paschaath-thaapam, sorrow after the war was over, repentence after the loss incurred. Reason out and discriminate.(Sathya Sai Baba 1968.02.11)
ターパン(熟慮、決意、規律)を最初に持ちなさい。これはパシチャートターパン(犯した失敗を後悔すること)より好ましいのです。アルジュナはターパンをもっていて、戦いが始まる前にすでに結果を見通しており、クリシュナからどうしたらいいかというアドバイスを欲しました。しかし長兄であるダルマラージャはパシチャートターパンを持っており、戦いが終わった後に悲しみ、損失を被った後に後悔していました。しっかりと思考し識別しなさい。(サティヤ・サイババ 1964.02.11)

 

この引用にターパンという言葉が出てきますが、deliberation熟慮という言葉は思惟という言葉に近いと私は思います。人には行動してから考える人と考えてから行動する人、あるいは行動しながら考える人がいるかと思いますが、私は考えてから行動する傾向の強い人間です。さまざまな用でどこかに行く際にもあらかじめ計画し、大雑把ですがどこで何をするかを決めておいてでかけます。でかけたら計画通りに淡々と行動するだけです。あらかじめ結果はほぼ見えています。結果がわかってから行動するといっていいでしょう。これはターパンといわれるものに近いと思います。法蔵菩薩は五劫も思惟し、人々を救うことが確実になってから阿弥陀仏となりました。

 

このブログで取り上げたことがあると思いますが、日本に梅路見鸞(うめじけんらん)という弓の達人が明治期でしたかいました。聞くところには、彼は矢が的にあたってから弓で矢を放ったようです。矢が的にあたってから矢を放つので百発百中です。実際にそうでした。梅路師の内面で起こっていたのもターパンや思惟に似たプロセスではないかと思います。世の中には未来が決まってから行動する人がいるのです。

 

エデュケアは知識を引き出すだけではありません。霊性の見解では内にすべてがあるのですから、自分の運命や未来もそこにあります。アルジュナや梅路師のように未来を引き出してくること=未来を確実にして行動に移すことも一つのエデュケアです。私はアルジュナや梅路師のような達人ではありませんが、日常的に似たプロセスを通じて日々生きているところがあります。つまりエデュケア=思惟=ターパンの類です。ある種の完全性や完璧性とも関わるのかもしれませんが、こういう生き方はおもしろいと思うので、可能なら試行錯誤しながら試みてみるといいと思います。

エデュケアとエデュケーション

検索していただければわかりますが、エデュケアについてはこのブログで3回ふれたことがあります。エデュケアはサティヤ・サイババが強調した概念です。さまざまな定義ができるのでしょうが、わかりやすくいえば「内から引き出すこと」です。先週書きましたように、意識あるいは心の世界にあるものを言葉(や行動)を媒介として引き出すこともその一つです。一方エデュケーションはいわゆる日本や他国一般で行われている教育のことです。読み書きそろばんのように言語や数学などの扱いに長ずることやさまざまな知識(情報)に関連することです。今日はこのエデュケアとエデュケーションの関係について少し触れます。

 

先週「意識の考古学」と題して、化石を取り出すように知識を得ていると書きました。私は漫然と頭を動くにまかしているところがあり、風が木々にまとわりつくように、水が川底の石をなでるように、頭は何かの対象について思いを巡らせています。特に霊性に関心がありますし、他にも経済や教育、山歩きや地域のことにも関心があります。ニュースアプリで現在起こっていることも大雑把に把握しています。頭が何かの対象について思いを巡らせているとき、大体それらのインプットに応じた思考が行われています。子どもがレゴブロックをいじるような感じで頭は思考対象をいじっています。意識的な目的はほぼありません。そういう時間をある程度確保していたら、そのうち何らかの新しい気付きが得られます。それは私が想像=創造したものというより、見つけたものです。発見とは見が発するということです。何らかのパースペクティブ(視野)が与えられると同時に新たな光で照らされた何かが見えてきます。それはそこにあったものといってもいいでしょう。また発見は英語でdiscover=dis+cover(覆いを取り除く)と書きます。覆いを取り除くことで埋もれていた何かが現れるということです。私にとって思いを巡らすことは、レゴブロックのように何かと何かが思わぬ結びつきを示し何かを見るレンズが形成されることでもありますし、あるいはスコップで土いじりをしているとき、土の中に何かを見つけるような作業にも似ています。それは内にあるものを見つける、そしてそれを言語化することによって少しばかり引き出してくる、つまりエデュケアの過程の一つといえます。

 

霊性のことについて思いを巡らしているときには大抵霊性に関する知見に到達します。経済のことについて思いを巡らしているときには経済に関する知見が得られます。いわゆる知識=情報は教育に関することですが、それらがきっかけとなって内なる探索が行われています。教育=エデュケーションとエデュケア(内から引き出すこと)は私の中でこのように関連しています。私が内から引き出してくることにどれだけの価値があるかは、他の人にとってはあまりどうでもいいことでしょう。実際私がこのブログに書いていることに価値を与える人は相対的に少ないわけです。あくまでも私の人生に関係する価値ということです。

 

まったく学校教育を受けていない人でも、家族や地域などで人と関わることで何らかの知識を得ていますし、まずはそれらを契機としてだれでも内なる探索、探究は可能です。私が大切だと思うのは、学校教育で高度な知識を与えられていようとあるいはそうでなかろうと、自分に今備わっている知識をもとに内なる探究ができるかどうかです。なので私はいわゆる教育と同時にエデュケア(内から引き出す)の訓練が必要だと思いますし、エデュケーションとエデュケアが両輪となって人生を歩むことが人生に実りをもたらすと思っています。

 

サイババの学校ではこのエデュケアの訓練がカリキュラムに組み込まれていますし、内から引き出すことになじんでいる人は、自分のなじみのない分野でも少しばかり時間をかければ物事を理解できます。私が個人的に思うのは、エデュケアの能力を発揮するには、思考の自律性、自立性やさまざまな人生の実体験を重ねていくこと(経験的知識)、あるいは遊びの要素、心の余裕、ある概念に関する手本、先達が身近にいることなどが必要に思います。

 

霊性の世界では外界と内界は対応しているといわれます。外に私たちが見るものはすべて私たちの内にある。なので外にあるものを調べるときには内なる世界を調べなければなりません。外にあるものを外を見て調べるのがエデュケーションであり、外にあるものを内を見て調べるのがエデュケアです。基本的に態度が異なります。付け加えれば、内と外との間に対応関係があると理解していることは英知の特徴の一つでしょう。

意識の考古学

大層な表題を付けてしまいました。私はかつて児童文学あるいはファンタジー文学に興味を持っていた時期があり、よく読んだ作家の一人にミヒャエル・エンデがいます。彼の配偶者は日本人で日本と縁の深かった方です。このエンデの書いた本に『闇の考古学』というものがあります。かなり昔に読んだことはありますが、父のエドガー・エンデを語ったもののようで、今は内容はほとんど忘れています。エドガー・エンデは画家だったのですが、彼がどこから着想を得て絵を描いていたかに関する本だったと思います。エドガー・エンデは一人暗闇の中でじっとしていて、イメージが湧いてくるのを待っていたようです。イメージといってもいわゆる想像作用によるものではありません。私の受け取りとしては、瞑想中に伝わってくるメッセージ性を感じる絵や映像に近いようです。その絵像は化石を掘り起こしたもののようにあらかじめ存在していたものといえます。

 

今日私が書きたい意識の考古学もそれに関してです。若い頃の私は一生懸命に無理して思考するところがありました。ある種何かと格闘するかのようにです。それで何か実のある思考ができたかといえば必ずしもそうではありません。今の私は強いて思考することはほとんどありません。頭が半自動的といっていいように動いています。そして自動計算のように時々何らかの結論を導き出しています。当然ほとんどのアウトプットはかなりの程度インプットに依存しています。私の思考はたとえばぼんやりと編み物をしたり、歩いている際に行われます。思考は内なる世界に浸っていて、それは意識との触覚的な相互作用と言えるかもしれません。思考の多くはとりとめのないものなのですが、ときに思わぬものが思わぬものと結びついて新たな知識が得られます。それは意識という地層から化石を見つけるに似ているといってもそれほどおかしくない作業です。ぼんやりしているとき、私の思考は時空を超えて自由にさまよっていますので、他地域の文化について思考していたり、あるいはずいぶん昔の時代のことを考えていたりします。そういう時間をある程度確保することで少しばかりの知識が得られます。

 

少し話は変わりますが、ヴェーダは別名シュルティ(聞かれたもの)といわれており、極めて意識が純粋な聖者たちによって感得されたもののことです。つまり聖者たちによって聞かれたものをメロディとサンスクリット語によって補完し、保管されたものがヴェーダです。またヴェーダは聖者たちによって霊視されたもののことだといわれることもあります。聞かれたものであれ、霊視されたものであれ、同じことをいっているのでしょうが、人に聴覚人間と視覚人間があるように、多少ニュアンスが異なるのかもしれません。

 

ヴェーダは人間が勝手に考えたものではありません。マホメットは啓示を受けたといわれていますが、それよりももっと純粋なものでしょう。仏教やキリスト教は基本的にお釈迦様やイエス様が語ったことが経典になっています。ヴェーダは神の呼吸だとされます。それはこの世界ができる前から存在し、この世界が消えてなくなった後も存在するとされます。生気が体を隅々まで満たしているように、ヴェーダはこの世界を隅々まで満たしています。おそらくですが、桜のヴェーダとか微生物のヴェーダとかそういうものもあるはずです。

 

私は意識の考古学に携わっているつもりでいますが、それでもかなり粗雑なことしかできていません。日本で可能かどうかはわかりませんが、意識を極めて純化したとき、その状態で意識が開示されたならば、そこにヴェーダが常に存在していることでしょう。その根源状態にあるヴェーダを直接聞いてみたいという好奇心はあるのです。耳を両手で覆えば、ゴーという音(これがプラナヴァ=オームです)が明らかに聞こえてきますが、これと同じ程度に明らかな音としてヴェーダを聞くことはどうすれば可能だろうかと思います。それはおそらくですが、意識の考古学を進めていったその先にもしかしたら可能なのではないかと勘ぐってはいます。

プラナヴァ(オーム)2

1995年3月20日地下鉄サリン事件が起こりました。その日から約27年経ちました。月日が経つのは早いものです。しかしながらこの事件をはじめオーム真理教が残した傷跡はまだ残っています。もちろん被害者の方々の心の傷はなかなかいえるものではないでしょうが、私が個人的に感じているオーム真理教の影響があります。それはインド文化が日本において歪んだ形で記憶されているということです。私はインド文化を尊敬するものですので、インド文化が歪んだ形で日本人に記憶されていることが非常に腹立たしくあります。

 

もう8年近く前になりますが、次のような記事を書きました。

aitasaka.hatenablog.com

ヒンズー教のシンボルであるのはプラナヴァ(オーム)です。今日はこのプラナヴァについてもう少し付け加えたいと思います。

 

私はヴェーダを学んだので、プラナヴァ(オーム)に関して述べる多くのヴェーダの詩節があることを知っています。私はヴェーダの御教えのいくつかは実践したいと思っていますので、これまでたとえば「マトルデーヴォーバヴァ、ピトルデーヴォーバヴァ(母を神としなさい、父を神としなさい)」などを誠実に実行に移そうとしました。他にもいろいろ生活に取り入れるように努めていますが、その一つにプラナヴァ(オーム)を唱えることがあります。私はオーム真理教とは関係なく、当初からまったく関心をもたなかったので、それに関する書籍も読んだことはありません。私がプラナヴァ(オーム)を唱えるのはただヴェーダに基づいてです。

 

たとえばタイティリヤウパニシャッドに次のような詩節があります。

オーミティブランマ オーミティダグンサルヴァム

(オームはブラフマンである。オームはすべてである。)

プラナヴァ(オーム)の唱え方に関してはサイババが教えているので、それに習って唱えますが、唱えるときにその音そしてその音に浸されている私の身をブラフマンであると思うようにしています。あるいはオームの音のうちにすべてがあると思って唱えています。そうたくさんの数を唱えているわけではありませんが、家で時間のあるときに唱えています。オームを唱えることの効果の程は個人的な感覚ではまああると思います。オームは不二一元を示しているといわれており、そのことも含め唱えることでさまざまな気づきが得られています。私がこのブログで書いた記事のいくつかもそのような気づきによるものです。

 

プラナヴァ(オーム)があり、神の御名があり、ガヤトリーマントラがあり、これらからヴェーダのすべてが生じています。最初にあったのはプラナヴァ(オーム)であり、オームを黙想することからありとあらゆる想念や思想の発展があり、神の御名やガヤトリーマントラが派生し、更には膨大な量のヴェーダが生まれました。そしてこのヴェーダが人間がよるべきダルマの道を示しているとされ、それによって人類世界は平和な生活を送ることができるようになります。太古のはるか昔の出発点はプラナヴァ(オーム)でした。プラナヴァはビックバンのときに生じた音であり、それによって宇宙が生じたように。私はヴェーダの復興を願っていますが、もしかしたらひたすらプラナヴァウパーサナ(オームを唱えること)だけしておけばそれは可能なのかもしれないと思ったりもします。プラナヴァは私が思うよりも遥かに価値あるものであり、私はこの価値が日本人に適切に伝わってほしいと願っています。

 

人の最終目的は至高者との融合つまりモクシャ=解脱でありますが、その解脱を象徴するものもプラナヴァです。プラナヴァは小さな個がブラフマンに溶け込んだ状態を示しています。プラナヴァは最終目的地でもあり、人はそこから生まれたところに帰っていく、つまり円環を描いてその旅を終えるわけです。出発地点と最終地点が同じであることが霊性の特徴の一つです。

 

私がプラナヴァに関して考えていることは、インド人に比べればごくごく僅かですが、私の考えは師の言葉とヴェーダをもとに私の中で形成されたものです。誰かが私に教えてくれたものではありません。私の思考が特定の哲学学派の影響のもとにあるとはあまりいえないと思います。私は聖なるインド文化のごく一端でも日本に伝わってほしいと願っていて、それがプラナヴァ(オーム)への信念となっています。適切なことが適切な形で早い時期に伝わっていたならば、オーム真理教はグロテスクな姿を晒すことはなかったのかもしれません。過ぎたことは過ぎたことですが、今後のことを考えれば、他国の素晴らしい文化は適切な形で日本に紹介され続けなければならないと今思っています。

Value your gifts(贈り物に価値を与える)

表題である「Value your gifts(贈り物に価値を与える)」は私の師の言葉か師の御教えに従っている人の言葉か忘れましたが、師にまつわる文献を読んでいて目にした言葉です。私たちは多くの贈り物を得ていますが、それらに価値を与えなさいということです。

 

もしかしたら私は特に贈り物をいただいていないよという人もいるかも知れません。正確に記憶しているわけではありませんが、こんな話があります。

 

ー ある物乞いがある人から「一財産(1億円くらい!?)あげるのであなたのもっているものと交換したい」といわれました。物乞いは「私は何ももっていませんけれども、もっているものは何でもあげますよ。」と答えました。それに対してある人は「それでは、一財産をあげるので、その代わりにあなたの目をいただきましょう」といいました。それを聞いた物乞いは飛び上がって驚き、「目がなくなればいくら大きな財産をもらってもどうしようもない。この取引はなかったことにしよう。」と慌てて答えました。そうです。私たちは神様から目や耳や手足などをいただいているのです。 ー

 

そうです。目や耳や手足があるのをあまりに当たり前と思っていますが、これらはみな神様からの贈り物です。太陽の光は海に降り注ぎ、水蒸気が雲となって飲水が大地に運ばれますが、これも自然、神からのいただきものです。もし空気がなければ人類はほんの数分で死に絶えてしまうでしょう。空気も贈り物です。そのつもりがなくても、野鳥たちは美しい歌声で私たちを楽しませてくれています。これも贈り物です。ただで得られているがゆえに、私たちは贈り物を何も受け取っていないように感じていますが、そうではありません。お中元やお歳暮をもらうこと、食事を少しばかりおごってもらうこと、ちょっとした機会に親しい人から物をいただくことだけが贈り物なのではありません。このような理解がまずは必要です。

 

次にこれらの贈り物、いただきものに価値を与えなければなりません。人間には体と心がありますが、体はなすべきことをなすために用い、心も適切な状態に保って、思考したり識別したり体に指示を出さなければなりません。鍋をいただいてそれを用いずしまい込んでいることがもったいないように、体も心も適切に用いなければ無駄にしていることに等しいといえます。金や宝石の原石が適切に形作られて価値をもつように、人間の体と心も適切な訓練によって適切な機能を果たすことが求められます。

 

身の回りには多くのものがあります。食材を買い込んだならば、それを調理して食べてこそ食材は価値を得たといえます。くさらせて捨ててしまえば、その食材は価値を得ることができなかったといえます。衣服も買ったならばきちんと袖を通して着なければなりません。買ったはいいものの一度も袖を通さずに何年か後に捨ててしまったならば、その衣服は価値を与えられなかったといえます。どんなものでもそうです。買ったりあるいは作ったものはその用途に従って用い、そうして初めてそのものに価値が与えられます。本を読んで得た知識もそれを用いて初めて価値が与えられます。ただ読んでそのうち忘れるだけなら本を読んだ時間もその本を買ったお金も無駄になります。いえ、きれいサッパリ忘れてしまえるならまだいいでしょう。活用されなかった知識は多かれ少なかれ心を騒がせる源となる可能性があります。

 

「価値」という言葉は現代におけるキーワードの一つだと思います。それに見合った値があるということです。この世に無意味なもの、価値のないものはないといわれます。たとえば自然界において私たちが害虫と呼ぶものは必ずしも生態系の中で害虫なわけではなく、一定の役割を果たしています。ほんの石ころ一つであっても私たちの狭い視野では価値がないように見えても、実際のところはわかりません。私たちの生活で生じるいわゆるゴミもそうです。資源ごみは分別し役立てられますが、今は燃えるゴミも燃やす過程で生じる熱がいろいろと活用されているようです。「価値」とはそのもの、あるいは人が本来のふさわしい場所におかれ機能していることなのでしょう。ジグソーパズルの一つ一つのピースのように。

 

身の回りのありとあらゆるものに価値を与え続けることは、かなり大変なことです。もし本当に自らの心身の機能に加え身の回りのものに価値を与え続けようと思えば、実際のところ、私たちは多くのものを所有することはできないでしょう。必要なものに上限が自然と与えられます。また価値を与え続けることができるならば、その余剰分が他者へ分け与えられ、それが一つの経済の好サイクルになるでしょう。

 

私は日本人らしいというか、もったいない精神が少しばかり身にしみているので、できるだけ身の回りのものを大切にしようとしますし、物もそれほど買わないようにはしているのですが、悲しいことにそれでも生活に無駄が生じています。今一つのゲームとしてValue your giftsという考え方はありだと思います。もしかしたらその結果日本経済の大きな発展につながるやもしれません。

ダルマの要素

インドには特有の言葉が多くあります。その一つにダルマがあります。ダルマはダルマとしか表しづらいので英語の単語にもなっているようですが、あえてそれを日本語にするならば、正しい行い、人としての本分、正義のような意味です。日本では仏法といいますが、いうならば仏法とはお釈迦様がダルマについて語ったことと理解することができます。男性のダルマ、女性のダルマ、学生期・家長期・林住期・遊行期のダルマ、ヴァルナやジャーティ(生まれや出自)に関するダルマなど、基本的に体に関係していて、その体を保護するために必要な行動規範のようなものともいえます。何がダルマ(正しい行い)で何がアダルマ(正しくない行い)かは簡単なようで難しい問題です。ダルマは普遍的な概念であると同時に文化によってその適用に大きな違いがあります。

 

ダルマについてインド人のアプローチで考えてもいいのですが、それはなかなか難しい面があります。今日はもっと簡単な日本人でも受け入れやすい考え方を紹介します。といっても、私の個人的な考え方に過ぎませんけれども。先日料理研究家土井善晴氏の“人間の暮らしでいちばん大切なことは、「一生懸命生活すること」です。”という言葉を見かけました。ここに「一生懸命生活すること」とありますが、私はこの一生懸命生活することがダルマの8割位を占めているのではないかと思っています。現代人は忙しいので、家事にあまり時間を割けれないかもしれませんけれども、それでも食べることや掃除、洗濯などは多くの家庭で行われているでしょう。またこれらの生活を維持するために適切な手段で収入を得ることも必要です。外食をすると出費がかさむので私も家で食べ物を整えるのが基本です。掃除や洗濯もします。敷地が少しばかり広いので、庭木を管理したり家庭菜園に少し時間をかけています。中途半端なことしかできてはいないのですが、中途半端なことでもこれだけしようと思えばかなり大変です。自分なりに一生懸命生活しているつもりです。あるいは暮らしているつもりです。

 

よく聞きますが、就活、婚活、終活などの言葉があるように生活とは生きる活動です。生きていなければ生活ではないでしょう。どういう活動に携わるときに生きているといえるのか、あるいは生きている実感があるのかは人によって違いがあるでしょうが、私は自分の創造性が少しでも発揮されているときに特に生きている実感を感じます。料理や編み物、野菜づくりなどはそういうことに関係します。体を動かすことは大切です。若い頃は頭で考えることがもっぱらでしたが、年をとってからは体を動かしながら考えることの楽しさに気づきました。そしてそれで思考のレベルは下がりません。むしろ現実的な思考ができます。豊かな思考も生活の恵みです。

 

私は時間があるときに時に公園に足を運びますが、公園では多くの親子が遊んでいます。見ているだけでこちらも楽しくなります。子どもの仕事は遊ぶことですが、子どもが遊んでいる姿を見続けていると、大人の仕事も遊ぶことなのではないかとふと思えてきます。人間の活動はすべからく遊びから派生したもので構成されているのかもしれないと。ダルマにおいて最も大切な規律は男女間の規律であるとされますが、これさえ気にして守っていれば、「遊びから派生した活動」で生活を満たしていいのかもしれません。ビジネスも人によってはある種のゲームですし、料理もそうです。近所の人との会話もそうでしょう。私は地域の山を歩いたり、自転車で行けるところまでサイクリングをしていますが、気晴らしでありながらそれが地域を深く知るきっかけになっています。人の数だけさまざまな遊び=活動が考えられるでしょう。そしてダルマとはそれらの遊び=活動のルールのようなものでもあります。子どもを見ていればわかりますが、遊びには多少なりともルールが備わっているもので、人間の活動もルールが備わっていてこそ社会に受け入れられます。

 

一生懸命生活すること、遊びから派生した活動、これらはダルマを考えるきっかけになると思います。ダルマという言葉はインド文化の深みを湛(たた)えている概念ですが、生活や遊びもダルマの要素の一部を含んでいるのは間違いないはずです。それらを踏まえれば、ダルマ=社会における規範に関する学習が一層進むことでしょう。仏教でいう末法とはダルマが廃れた時代のことですが、ダルマが社会の規範として再び機能することは末法から正法の時代へと時代が進むことでもあります。

神に面倒を見ていただくための条件2

以前「神に面倒を見ていただくための条件」という題で記事を書いたことがあります。

aitasaka.hatenablog.com

帰依者がどのような条件を満たせば神は帰依者の面倒をすべて見てくださるのかということに関してです。ごく大雑把にいえば、常に神を思い、神への礼拝として人生すべてを捧げものとすることによってそれは可能だろうと書きました。自らの思いと行為がすべて神のものであるということです。言葉は口(舌)による行為であり、行為の一部分をなします。

 

さて、今日はこれに関連したことを書きます。私は奉仕に関心をもっています。日本で奉仕といえばボランティア(自発的な行為)という言葉が用いられることがほとんどで、それを決して否定するわけではありません。ただ今奉仕という言葉で伝えたいのは、seva(セヴァ、サンスクリット語)=service(サービス)=世話の意味での奉仕です。serviceと世話はsevaから派生した言葉です。本来同じ意味をもち、それは奉仕です。奉仕という言葉をservice、もう少しわかりやすくいえばcare(ケア)という意味で用いたいのです。奉仕はホームレスの人や病気などで困っている人を助けることです。また家事によって家族の世話をすることも当然serviceであり奉仕です。誠実で着実な仕事も奉仕です。奉仕(seva)はいわゆる奉仕だけでなく、もっと豊かな意味を含んでいます。

 

奉仕とはホームレスの人や生活に困窮している人、あるいは一時的にでも困難を抱えている人に対して手を差し伸べ、その人が人間としてふさわしく生きれるように助けることです。困っている人、問題を抱えている人などが奉仕の対象です。ニュースで流れなくても、世界には困っている人がたくさんいます。少しばかり人生経験を重ねた人ならばわかることでしょう。つまり奉仕をする意志があるとは、これらの人に寄り添うことを選ぶことでもあります。私はかつて街を自転車で走っていた時、ホームレスの人のそばを通り過ぎました。通り過ぎるときにその人がホームレスであることに気づいたのですが、自転車に乗っていた勢いでその人を無視してそのまま通り過ぎたことがあります。無視してしまったことで心が痛み、彼のような人に即座に寄り添えないのならば自分が奉仕に関心があるとはいえないのではないかと思ったことがあります。もう10年以上も前のことです。その時の記憶が最近蘇り、ふと「奉仕をする意志があるとは、世界の最後尾(しんがり)の人と共にあることを受け入れることである」との思いがわきました。奉仕をする人は、世界の最後尾を喜んで歩む人なのです。

 

さて、世界の前方を歩んでいる人はその人の周囲を取り囲むものによって守られるでしょう。社会の制度や人間関係あるいは富や地位などによって守られるということです。では世界の最後尾を歩む人は何によって守られるでしょうか?自分の後ろには何もありません。おそらくそういう人は神様に守られているのです。私は高所恐怖症で、高い建物から外をのぞくことや大きな川にかかる橋を歩くのが苦手です。しかし大地の上を歩いているときはまったく不安がありません。地に足がついている感覚があります。一方高いところでは人工物によって守られています。それに似て、世界の最後尾にいるときは大地に足を踏みしめているような感覚があるでしょう。

 

奉仕とは奉仕の相手への礼拝であるといえます。相手の内に愛する神を見るならば、それは神への礼拝です。そして奉仕をするとき神に守られているという安心感・実感が私にはあります。奉仕は神への礼拝と神を思う時間を与えてくれます。つまり奉仕する相手の内に神を見るならば、それは神に面倒を見ていただくための条件を満たすというわけです。奉仕はそもそもどの宗教でも指針とされるものです。どの名の神仏を掲げる宗教であろうとも、奉仕を行うことはその御教えにかなうものです。

 

神を思いながら奉仕する。それも世界の最後を歩む人とともにいる。そして奉仕をすべての行為を神への捧げものとして行うもののことだと読み替えれば、これは私が長い間求め続けていた神の保証を与えます。奉仕という言葉はほんの2字ですが、そこには多くの意味が含まれています。私はそのごくわずかしか理解していませんが、そのごくわずかでも実践していきたいと改めて思ったのです。

サティヤサイオーガニゼーション

 

今日はサティヤサイオーガニゼーションについて少し触れたいと思います。サイババに関心のある方は知っているかもしれませんが、そうでない方は知らないのではないかと思います。サティヤサイオーガニゼーションのサイトを見ていただければどういう団体かわかります。

www.sathyasai.or.jp

 

私も一定の期間関わりがありました。私の個人的な理解では、サティヤサイババの指針に沿って霊性の向上を目指す奉仕団体です。サイババのもとに集まるものの中に多く霊性の向上を求める人がいたので、サイババが彼・彼女たちのために与えた団体です。サイババ個人の使命とは直接的な関係はありません。あくまでもサイオーガニゼーションに参加する者たちの霊性の向上の場であり、サイババサイババ、サイオーガニゼーションはサイオーガニゼーションです。

 

それがどんな団体であるかは関わる人それぞれの個人的な受け止め方があると思います。サティヤサイオーガニゼーションのメンバーであることとは、「1.霊性の向上を望むこと。2.適切な手段で団体の掲げる御名を公布する意志があること。3.多くの人に善良な人と認められていること。」の3つの条件と「9つの行動規定 - 1.毎日、瞑想と祈りを行う。(各人の宗教的習慣に従って)2.週に一度、家族と共に愛の歌を歌う/祈りを行う。3.サイ オーガニゼーション/センターが主催するバールヴィカス/教育プログラムに自分の子どもを参加させる。4.サイ オーガニゼーションによる地域奉仕活動、その他の活動に参加する。5.サイ オーガニゼーションの主催するグループでの神への讃歌に少なくとも月に一度参加する。6.霊的な文献をサイの御教えを参照して定期的に学ぶ。7.「欲望に上限を設ける」行動規範(節制のプログラム)を実践し、それによって蓄えたものを人類への奉仕に役立てる。8.自分が接するすべての人に優しく愛をもって話す。9.他者の悪口を言わない。特に本人がいないところで。」から意識的、意図的に外れないことです。この3つの条件と9つの行動規定から外れている人がサティヤサイオーガニゼーションのメンバーであると主張することは形容矛盾のようなものだと思っています。

 

この団体に参加すればサイババに関する多くのことを学ぶことができますし、サイババのことだけでなくインド文化、例えばバジャンや奉仕、瞑想、ヴェーダなどに関することも学べます。一定のレベルまでは大いに役立つと思います。特にサティヤサイ出版協会の方々のなさる奉仕は多くの人に役立っています。

 

さて、このサティヤサイオーガニゼーションは運営のガイドラインなどが定められた一つの形をもつ組織なのですが、一方サイババは晩年に近い頃だと思うのですが、近い内に全世界がサイオーガニゼーションになるでしょうと語っていました。私は普段たくさんのサイ文献を読んでいるので、この言葉をどこかで見た覚えはあるのですが、具体的にいつおっしゃられたかはメモしておらず、あくまでも私の記憶上ではサイババはそのようなことをおっしゃっていただろうということです。この言葉を読んだとき、私は組織としてのサティヤサイオーガニゼーションが会員数において拡大していくものと思っていました。しかしながら今は別の受け取り方をしています。実際に組織としてのサティヤサイオーガニゼーションに多くの人が参加するというよりも、組織に参加せずとも多くの人が上に掲げた3つの条件と9つの行動規定に沿った生き方をするようになると理解するようになりました。

 

それはつまりこういうことです。多くの人が霊性の向上を求める。サイババの名を宣伝せずともサイババの教えに従って生きる人が知ってか知らずかサイババの名を伝えていき、少しずつかもしれないけれどもサイババの名は静かに全世界に広まる。人々は善良であろうとする。多くの人が日々の瞑想と祈りを習慣にするようになる。家族で祈ることが増える。何らかの宗教団体、霊性の団体に関わっていく。霊的文献を多くの人が読むようになる。たとえ小さくとも奉仕活動に参加する人が増える。言葉の使い方に多くの人が気をつけ優しく悪意なく話す。組織としてのサイオーガニゼーションに参加していなくとも、こういう人は今は多くないとしても日本に普通にいると私は感じています。更に今後増えていくような気もしています。霊性の向上の鍵となるのは、9つの行動規定です。有形の組織としてのサイオーガニゼーションとは異なる、組織などないけれども、3つの条件と9つの行動規定に沿った生き方をする人々は無形のサイオーガニゼーションに所属しているといっていいと思います。サイババは3つの条件に従う人は私の胸の内に居場所があるとおっしゃっているので、有形の組織としてのサイオーガニゼーションに所属していなくともサイババの恩寵・祝福は間違いなく得られ、そして霊性の向上もあることでしょう。

 

実際のところ、私は今有形の組織であるサティヤサイオーガニゼーションに所属してはいませんが、無形のサイオーガニゼーションに所属しているような気持ちはあります。あくまでも大切なのは3つの条件と9つの行動規定であるとの信念を私はもっています。

遊行(ゆぎょう)

 

私はかつて林住期について書いたことがあります(下のブログ記事)。インドでは人生を4つの時期に分けます。学生期、家長期、林住期、遊行期です。大体25年毎に区分けされています。私は50歳を少し過ぎた年なので、今林住期を意識して過ごすことが多いです。遊行期については70歳を過ぎて考えても遅くはないのですが、最近遊行について考える機会がありました。今日はこの遊行について書いてみるつもりです。

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遊行の意味をウィキペディアで調べれば「遊行(ゆぎょう)とは、仏教の僧侶が布教や修行のために各地を巡り歩くこと。空海行基空也、一遍などがその典型的な例である。」とあります。私がまず思い浮かべるのは浄土系の一遍上人です。盆踊りの起源とされる踊り念仏で有名な方ですが、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら全国各地を巡り歩かれたと聞いています。弘法大師の伝説も全国各地にあるようで、四国八十八ヶ所などはそれに関係していると聞きます。松尾芭蕉は仏法者としてではないでしょうが、旅行でもありまたある種の遊行をされた方でもあります。近代では種田山頭火などもいます。

 

私の手元にある『神問神答』という本では遊行について次のように書かれています。「サンニャーサ(遊行者)は人ごみの中では生活しません。それがどれほどわずかであろうとも、得られた食物だけで生活します。食物が得られなかった場所を非難することはありません。同じ場所では二度と食べず、同じ場所で二晩続けて寝ることはありません。サンニャーサは眠ることと食べることへの誘惑さえも克服します。季節の厳しさもほとんど気に留めることはありません。サンニャーサはディヤーナ(瞑想)によって呼び出す神と共にあり、いつも喜びに満ち、幸せです。」(p30)このような態度で各地を遊行する者がインドでは遊行者とされます。食物は托鉢というか市井の方々からの施しで得ているのでしょうし、寝る場所も屋根があるとは限りません。見方によっては日本のホームレスの方の生活を思い浮かべなくもないですが、遊行の動機は感覚的、物質的な欲望の克服にあり、死において絶対者に融合する直前のあり様として遊行が規定されています。

 

私は山歩きを少しばかりしますので、山の中に庵というか修行をするための建物があちこちにあることを知っています。ただし現在はそれらのほとんどは使われておらず朽ちていますけれども。林住は正確にはそれらの山の中の庵などで生活することでしょうが、山の中で生活せずとも自然環境が豊かで人の少ない僻地で生活することも林住期の一つ過ごし方だと思っています。それと同じように遊行は正確には今日の食事や住処のあてのない中各地を巡り歩くことなのでしょうが、例えば各地を巡り歩きつつもお寺のネットワークを活用して食事と寝床を確保することも遊行のようなものとしていいでしょう。最近は見かけませんが、20年前は街角でお経を唱えながら托鉢をされていた(遠方からきた)真言宗の僧侶の方をしばしば見かけました。50年100年前あるいは江戸時代などにはもっと遊行されている方は多かったかもしれません。

 

現時点では一般人が遊行をするのは不可能ではなくとも困難でしょう。地方によっては冬の寒さが厳しいです。托鉢したとして一般家庭の人がそれを理解して食物を提供してくれることはどのくらいあるのでしょうか?寝床を提供されることも少ないでしょうし、野宿を続けるのも厳しいものがあります。私などは健康の問題を抱えているので、長く続かないだろうことは目に見えています。このようなことを考えれば、インドには貴重な文化が残っているといえます。

 

少しばかりお金を使っていいとなれば、少しは遊行に似たことはできます。実は今日遊行について書こうと思ったのは、AirBnB社の資料を見たのがきっかけです。その資料によれば、今世界で旅行革命のようなものが起こっているらしいのです。これまでは定住と旅行とに分かれていたのですが、今は定住と旅行の間の一時的な滞在というものが世界の多くの人に受け入れられつつあるらしいのです。ワーケーションやリモートワークが可能になり、それはどんな辺鄙なところでも宿泊するところが確保できるようになってきたからです。AirBnB社のサービスを使えば、ユースホステルやゲストハウス、普通の旅館・ホテルのないようなどんなところでも一時的な滞在が可能になります。AirBnB社のサービスは本来遊行のためのものではないでしょうが、日本各地を経めぐりながら、時には野宿をし、時には家屋の中で睡眠をとるような生活はできそうです。

 

私は今山や平地を歩いているときにしばしばマントラを唱えています。プチ遊行のようなものです。体力の制限があるとしてもそもそも歩くことが好きです。完全なる遊行はできずとも、何日か単位くらいならそれらしいことはできるかもしれません。とはいっても可能ならば、お寺のネットワークのようなものもあったらいいなと思います。遊行が盛んになればおもしろいといえばおもしろいと思うのですよね。

私のコミュニケーションスキル

 

私は長年人とのコミュニケーションに悩んだと思います。今でも多少そういうところはありますが、年をとってずいぶん楽になりました。愚鈍ながらコミュニケーションスキルを磨こうとしたことはありますが、世間で喧伝されているような立派なコミュニケーションスキルを身につけることはできていません。しかしながら、今私がコミュニケーションにおいて心がけていることに触れるのも、もしかしたら誰かの役に立つかもしれません。

 

私の師は、「人と会ったときにはこんにちは、分かれるときにはさようなら、それだけで十分です。」というようなことをいっています。話すことはあいさつと本当に必要な最小限だけで十分だそうです。口数の少ない人間は他の人から見ておもしろみがなく、あまり相手にされることはありませんが、それを補って余りある心の平安と幸福があるといいます。私はそれを実感しています。そもそも私はこれまでの人生で長い間家族からも含めて愚か者扱いでしたし、一人の時間を過ごすことが他の人より多くありました。一人でいることを孤独といいますが、孤独といっても寂しさを感じる孤独lonelinessと一人の時間を楽しむ孤独solitudeがあります。寂しさを感じる孤独しか感じなければどうしても仲間を欲してしまうでしょうが、幸いなことに私は一人の時間を楽しむことのできる人間へと成長することができたので、人に相手にされなくてもそうは気になりません。私はおもしろみのない人間と受け取られていても心は平安です。

 

人とコミュニケーションをとる時、話す場合は相手の心に届くように言葉を選んで話すように心がけています。表面的な話題に話を合わせることはあまりありません。人の話を聞くときは心で聞くようにしています。頭で考えることはしません。心に伝わってくることだけが私へのメッセージだと思っています。心と心の間にメッセージのやり取りが交わせたかどうかが大切です。それ以外に気を向けることは年をとって億劫になりました。私から相手に伝える際も、相手から私に伝える際も多くのものがこぼれ落ちている可能性はありますが、今はそれでいいと思います。心から心に何かが伝わったときには相手と何らかのつながりが築けているのでしょう。heart to heart feeling(心と心がつながっている感覚)が大切です。何かが伝わっていさえすれば、相手の個性を問うことはあまりありません。

 

しかしながら、世の中にはいろいろな人がいて、日常的に頻繁にうそをつくことでコミュニケーションを図っている人が私の周辺にも何人かいます。そういう人と関わらざるを得ないことは悲しいことで、腹の立つこともたびたびあります。突然怒り出す人もいます。私に全く否がないとはいわなくても、そんなに怒鳴られることをしたりいったりしたかと悩んだことは幾度もありました。その他、コミュニケーションを取らなければならないのにそれが非常に困難なケースは、私でなくても多くの人が体験しているでしょう。

 

半年くらい前か忘れましたが、ツイッターを見ているとあるお坊さんの「普通の人から見てなんでそんな振る舞いをするのか理解困難な人がいたら、その人はまだ人間として転生してきた回数が少なくて人間というものに慣れてない可能性があります。」というような言葉が目に止まりました。もしかしたらそういうこともあるかもしれません。私は輪廻転生を信じていますが、今は人類の歴史の上で人間の数が最も多い時期で、これまで動物や植物だった存在が初めて人間として生まれたケースもありそうです。当然人間というものに慣れていないでしょう。お坊さんの言葉になるほどと思ったものです。相手の振る舞いに怒って相手を傷つけず、そして相手を暖かく見守り尊重し、何とかことをやり過ごすための一つの受け取り方です。

 

正直にいいますと、私はこれまで思う存分自分の思ったことを人と話したことはありません。理解されないからです。一生懸命そんな私を受け入れようとしてくれたのは母親だけだったでしょう。言葉を選ぶと少しばかり理解してくれる人もいましたが、そういう人はこれまで5人もいたかどうかです。そんな私が信仰をもち神仏に語りかけることを習慣とするようになったのはある種の必然といえます。コミュニケーションに悩んでいる人は多くいるでしょうが、信仰をもつことは一つの救いではあります。

リーダーシップ2

 

私はこれまであまりリーダーシップを必要とする立場になかったことにより、それほどはリーダーシップについて学んでいません。今までリーダーシップについて心に残っていることとしては、奉仕の精神を体現している人がリーダーになるべきこと、フォロワーシップこそがリーダーシップを学ぶ場であること、リーダーはメンバーと存在を共有していなければならないことなどがあります。今日はそれに加えて一つ気になったことを書いてみたいと思います。

 

以前セブンイレブンのCEOであった鈴木敏文氏について取り上げたことがありますが、彼の著書や彼について書かれた著書を読む限り、私は彼は経営の天才であると思っています。アメリカには経営の天才が力を発揮する土壌がありますが、日本にも本来経営の才能をもった人がいるにも関わらず、その才能を発揮できている人はわずかでしょう。ヤマト運輸の元社長小倉昌男なんかも優れた方でしたが、個人的には鈴木氏の方が学ぶところが多くあります。私は優れた経営者がもっと多く日本で活躍してほしいと願っており、また中小企業ももっと多く誕生して、日本経済を活性化してほしいとも思っています。経営学は日本に広まって欲しい学問の一つです。

 

さて、今日の本題です。鈴木敏文氏の『商売の原点』という本があります。それを読んでいると次のような表現が目に止まりました。「組織にあって「長」がつくのは、部下を通して仕事をする人のことです。それができなければ、あってもなくてもいい、人体でいえば盲腸(虫様突起)のようなものです。」(p184)

 

当たり前といえば当たり前の言葉ですが、考えさせられました。部下はある意味自分の分身なわけです。別の人間ではありますが、しかし部下は「長」がつくものの仕事をするわけです。これは部下から見ればフォローワーシップ、つまりリーダーに忠実なフォロワーであるべきだということになります。おそらくフォロワーであろうと長年心がけてきたならば、フォローワーであることを容易にする要件を理解するようになると思います。その要件を理解しているならば、その人がリーダーになったときに部下にその要件を示し部下に仕事をしやすい環境を提供しやすくなるでしょう。

 

さて、人は思いのとおりに言葉を話し、言葉のとおりに行動するときに最も力を発揮します。ならば部下を通じて仕事をする際に、「長」がつくものは部下と思いを共有しておくことは必須になるはずです。会社ですと、会社の基本原則は身にしみていなければなりません。基本原則が身にしみていたならば、部下の個性に任せて基本原則の実行を徹底してもらえばいいわけです。大変なのは、思いを真に共有すること、基本原則を理解して身につけてもらうことです。リーダーの仕事のかなりの部分はその点に集約されえます。部下に理解してもらうためには、自らがある程度コミニュケーション能力を身につけ、相手が理解しやすいようあの手この手で繰り返し要点を示します。言葉だけでなく手本を示すことも含まれるでしょう。

 

会社組織ですと成果はドライに数字で評価するのが簡単です。基本原則を理解してもらえれば、部下の人格に手を加えようとする必要はまったくないですし、部下の評価はそのまま「長」がつくものの評価となります。「長」がつくものと部下はある意味一つの存在なわけです。

 

私はリーダーとしての経験が不足していますので、あまり偉そうなことはいえません。ただ鈴木氏の言葉はリーダーシップについて考えている人にとって何かを考えるきっかけを与えてくれるのではないかと思い紹介しました。リーダーと部下の関係を父と子に例えている文を他の本で目にしたことがありますが、ある種それに近い親密な関係があってこそ、部下を通して仕事をすることができます。常々諸リーダー方が、家庭や地域、社会をより良い方向へ方向づけることができますことを願っており、今日は少しばかりリーダーシップについて書いてみました。