日本文化の有効性

 

The first aim is to foster and cultivate Bharatiya culture. Let its validity be examined through actual living, and one's own discovery of its values; and communcated to others by those who have experienced the peace and joy derivable from it.
(第一の目的はバーラタ(インド)文化を育み、培うことです。その有効性を実際の生活、各人自らのそれに関する価値の発見を通じて検証し、そこから引き出せる平安と喜びを体験した人々によって(インド文化を)他者に伝えていくことです。)

 

このような文章を見かけました。私は日本人ですので、読んでいて「バーラタ文化」の箇所を「日本文化」に置き換えて考えてみたくなりました。私は日本文化を育み培っているでしょうか? 実際に日本文化を生きること、そこに内在する価値を発見することを行い、その有効性を確かめているでしょうか? 私は日本文化の実践から平安や喜びを引き出し、それを他者に伝えているでしょうか? 正直いってこのようなことを考えたことはほとんどありませんでした。私は文楽や歌舞伎、茶の湯、日本の楽器演奏、武術・武道、和服その他、いわゆる日本文化と呼ばれるものから縁遠い人間でしたから。しかしあえて書いてみようと思います。

 

一部の人が文楽や歌舞伎が好きであったり、抹茶を楽しんでいたり、和服を日常的に着ているのを私は知っています。しかしながら、もし彼・彼女らがそこから持続する平安や喜びを引き出していないのならば、単なる形式的な様式に時間を過ごしているだけであって、真に文化的であるとはいえないのかもしれません。消費文化に染まっている現代人の娯楽や社交の一つでないことを願っています。

 

私はわずかばかりは日本文化を生きていると思います。そしてそこから平安や喜びを引き出しています。列挙してみます。
1.親を敬ってきた
2.真宗から学んできた
3.もったいないの精神を培ってきた
4.歩行禅
今思うのはこれくらいです。

 

親を敬うのは日本に限ったことではなく、世界中で見られることです。私は親との間に軋轢がありましたが、それでもできる限りのことはしてきました。これらのことに関しては少しですがこのブログで書いたことはあります。両親をあの世に見送る中で、両親が少なくとも私に関して思い残すことがないだろう最期の言葉を交わしてもきました。完璧な子であったとはいえませんが、しかし今私は平安と満足に包まれています。

 

真宗からわずかばかりですが学んできたことはあり、それについてはこのブログで何回か書いています。信仰心を育むことができ全託に関する理解が進んだおかげで平安や喜びも得られています。他宗派もそうなのでしょうが、真宗も日本文化として価値を有しているのは間違いないでしょう。

 

私は幼い頃からそれほどは裕福でなかったので、もったいないの精神は長い間心がけてきました。なかなか物が捨てられないところはあります。できるだけ有効活用しようと知恵を絞ろうとします。それでも現代人ですので無駄があるのは間違いありません。もったいないの精神に関しては、2つの文脈から眺めることができます。一つは節制の面、つまり欲望に制限を設けることです。もう一つは、「急げば無駄が生じ、無駄が生ずれば人は不安になる」という言葉があるのですが、このことを私はかなり実感していて、つまりもったいない精神でいれるために、急がないという選択を意識的にしています。無駄がなければ不安がなく、つまりは平安なわけです。

 

歩行禅という言葉はいつ頃から使われているのか知りませんが、一つは峰入行の現代的解釈であるように思われます。つまり全国各地で峰入行が行われていましたが、その禅的効果に焦点を絞ったのが歩行禅という言葉です。私は山を歩くことがあります。歩くときはゆっくりとですが、比較的長距離の山道を歩きます。アスファルトの道は足腰に負担が大きいので今は長い距離をあまり歩きませんが、かつて気持ちが荒んでいた頃は無性に歩きたくなって街中をよく歩いたものです。禅という言葉が含まれているように、歩くことに精神を安定させる効果があるのは実感しています。

 

今取り上げた4点を私は日本文化と呼びたいのですが、それでもせっかく日本人として生まれたのですから、もう少しは日本文化を身につけたくはあります。私が今思っているのは、日本の経済思想史を学んでその一部を生活に取り入れたいなということです。生活の経済面です。いわゆる資本主義と異なった経済は可能であろうと思うのですが、そのあたりをごくごく小さな範囲(家計)で検証してみたくはあります。それは今後の課題です。

こころを編む

 

以前文章を読んでいて、knit the heart(こころを編む)という表現に出くわしました。とてもいい表現だなと初めて目にした時に思いました。私はテレビをほぼ見ませんし、15年くらい前から家にいて時間がある時に編み物をすることが多くありました。編み物を初めた当初はいろいろなものを編んでみようと試みたのですが、素人の独学なのであまり技量は上達しておらず、最近は人にプレゼントする靴下や帽子をもっぱら編むことが多いです。編み図もほぼ同一なものを用いることが多くなりました。

 

山歩きと同じで、編み物をする時間は物思いに浸る時間です。手は毛糸を編んでいるのですが、複雑なものを編んでいないので、頭ではいろいろなことを考えています。そういう時間を通じていろいろな課題に対する答えを出してきました。編み物を瞑想に例える人もいて、たしかにそういう面はあります。靴下は年に20足は編みます。帽子はこれまでは時々しか編んでいませんでしたが、受け取ってくださる方(ホームレスの方)がいるようなのでできれば10~20点くらいは編みたいと思っています。余裕があれば、セーターやマフラー、その他必要が生じたものを編むつもりでいます。

 

かつてこのブログで触れたことがあるのですが、リキタジャパム(御名を書く)という行があります。私はこのリキタジャパムをやはり20年弱続けていまして、仏教やキリスト教などにこの行があるのかどうか知りませんが、もしこの御名を書くという行を専門に行なっている宗教者がいないならば、私は今生きる日本人でもしかしたら一番多く御名を書いてきたかもしれません。浄土系仏教では御名を唱えはしても、書くことを特に推奨していません。リキタジャパムは御名の表す姿を思いながら、口に御名を唱え、手で御名を書くというものです。すぐに気が散ってしまうので、簡単なようで結構難しい行です。しかしながら私は字が好きなので、長年この行を続けてきました。ここ数年は平均すれば一日に一時間はしているかもしれません。光明瞑想やガヤトリーマントラほどは勧めてこなかったのですが、人によっては高い効果が期待できる行でしょう。

 

編み物と御名を組み合わせるならば、リキタジャパムならぬニットジャパムという行ができます。愛する御姿を憶念しながら御名を唱え、手で編み物をするのです。人によっては個人的にこういうことをしている人はいるはずです。knit the heart(こころを編む)という言葉ですが、編み物で一つ一つの目を編み衣服を作り上げるように、「人と人の心をつなげていって社会が一つになりますように」というような文脈で使われていたと思います。ニットジャパムにおいては、そういう祈りを込めて編み物をすることもできるのはもちろんです。それとは別に、愛する御名と御姿に集中しながら編み物をしていたら、日々の生活の中で千千に散った自らのこころを一つにする作用があると思います。つまり手は作品を編んでいるのですが、同時に御名・御姿を媒介として自らのこころを一つに編み上げてもいるわけです。そして編みあがった作品とこころを家族や知人、ホームレスの方にお捧げします。私にはリキタジャパムに負けず劣らぬ立派な行に思えます。毛糸の靴下は比較的破けやすいので毎年編むことができ、継続的な行となります。

 

ニットジャパムで余分な時間を有効活用することができます。自分のこころを落ち着かせ一つにしてくれます。さらにできあがった作品を捧げものとして捧げることもできます。寒い思いをされている方はそれでほんの少しばかりは暖かい思いをすることができるでしょう。(修)行でかつ奉仕でもあるのですが、リキタジャパムよりは日本人に受け入れやすいような気はします。

 

今年は例年に比べて少し寒いような気がしており、私はすでに今年の冬の靴下などはすでに晩秋に人にお渡ししていて、今は来年のものをせっせと編んでいるところです。御名と御姿に集中できなくても、ただ湧き出てくる思いにふけっていると思考が次第に整理されてくるので、それだけでも精神にいい効果はあるでしょう。こころを一つにする=こころを編む時間は、冬の過ごし方としてより多くの人に支持され得るような気はします。

光の宗派

 

前年12月にお寺参りをした時に聞いた話です。親鸞聖人を慕う人々が仏法を学ぶ集まりを行う際に本尊が必要ですがどうしたらいいでしょうかと親鸞聖人に問うたとき、親鸞聖人はしばらくの間考えて文字を本尊にすることに決めたそうです。正確には名号です。浄土系の宗派では阿弥陀如来を崇めますが、普通なら絵像や木像を本尊にするものの、真宗で絵像や木像を本尊にすれば信者たちが臨終来迎を求めてしまうと親鸞聖人は思ったそうです。そのためしばらく考えてから文字=名号を本尊にされました。親鸞聖人の真筆が10近く残っているそうなのですが、その中に三種類の名号があるそうです。一つは南無阿弥陀仏で、一つは帰命尽十方無礙光如来、そしてもう一つは忘れてしまいました。

 

南無阿弥陀仏はインドの言葉の音写です。「ナモー ミダ― ブッダハ」だったかそういう音です。日本語の意味はありません。そしてその意味を意訳したものが、おそらく中国においてなされたのでしょうが、それが帰命尽十方無礙光如来です。「十方のありとあらゆるところを何からも妨げられることなく包み込む光である如来に帰命し奉る」という意味です。つまり阿弥陀様の実体は光だったのです。帰命尽十方無礙光如来という御名は知っていましたが、これが南無阿弥陀仏という御名の原義だということは初めて知りました。法蔵菩薩が仏になって阿弥陀様になったという話ばかりが私の頭の中にあったからです。浄土系の宗派、特に臨終来迎を説かない真宗は光を崇めていたわけです。

 

例えば『弥陀如来名号徳』という親鸞聖人の書物には、無量光、無辺光、無礙光、清淨光、歓喜光、智慧光、無対光、炎王光、不断光、超日月光等々の御名=名号の解説がされています。すべて光に関するものです。これらはすべて光のさまざまな性質を思い浮かべさせてくれます。

 

真宗特に親鸞聖人が光を崇めていたということを知って、親鸞聖人を見る目が変わったのは確かです。人は心の奥底まで光に照らされているということを自覚して生きなさいという教えは、私にはかなり現代的な感じがします。私は普段光明瞑想をしています。体も心も光に照らして、最後は自分が光であることを瞑想するのですが、これはそのまま真宗の教義であるといえなくないことはありません。私は普段ガヤトリーマントラを唱えていますが、これは太陽神=光を瞑想しますというマントラでもあります。私は常々光明瞑想とガヤトリーマントラを多くの人に勧めてきたつもりですが、それは光が普遍的であるからです。そして最近阿弥陀仏の意味が光であることを知り、真宗の教えに従うことと、光明瞑想をすることと、ガヤトリーマントラを唱えることが一つの同じことであるという自覚に至りました。私は知ってか知らずにか、光の宗派に属していたのです。そもそも私は聴覚系の人間ではなく視覚系の人間で、若い頃から光を特別な存在だと思ってきました。

 

光明瞑想をするとき、最後に光と一つであることを瞑想しますが、一口に光といっても、無量光、無辺光、智慧光、炎王光など、さまざまに瞑想できるということを学んだのは最近のことです。光を超越者として選ぶならば、太陽に照らされている昼間は超越者のもとで生きることです。意識の光=アートマの光に焦点を当てるなら、自らのすべては光の内にあります。自らが常に光に照らされていると自覚するならば、いつも超越者の懐にある安心感があります。電化製品にとっての電気のような働きを、光は人間に対してなしていると思うならば、人間は一つの機械であり、それは全託ということの一つの意味です。

 

このように阿弥陀様が光であると受け取ることで、真宗の教義が今までにない新たな意味を持ち始めた今日この頃です。多くの人がこのことを知れば、仏教ここでは浄土系の宗派がおもしろいことを主張していると思うようになり、宗教に親しむきっかけになるでしょう。ちなみに阿弥陀様が光であることを教えてくれた方は、「他宗教は信じる宗教ですが、仏教は目覚める宗教です」とおっしゃっていました。

今年の目標

 

明けましておめでとうございます。2021年がやってきて最初の記事ですので、毎年同様まずは今年一年の私の目標を書いておきたいと思います。昨年の最後の記事で、昨年の目標「自分の家と周囲の環境を清潔に保ちなさい。あなたと社会に健康と幸福が約束されます。」はもう一年かかると触れました。もちろん、家や周囲の環境を片付けて次なる人生のステップに踏み出す準備をするつもりでいます。しかしこれは状況次第では半年で目処がつく可能性もなくはなく、今年のサブテーマとするつもりです。例年はサブテーマをもうけなかったのですが、今年は例外的にサブテーマを設けることにしました。

 

今年の主なるテーマですが、少し考えたのですが、正月が明けてから心を占めていたことがあり、それにすることにします。今年は珍しく真宗の言葉に関係するテーマです。ー「雑修は雑縁をもたらす」を心に留め置くー、が今年のテーマです。真宗のことに詳しい人以外にはわかりにくいので解説をしておきます。真宗では阿弥陀様の御名を唱えること「だけ」が勧められていて、それは一向専修といわれます。特に同じ浄土門の中で浄土宗との違いを強調する際に「専修、雑修」がいわれることが多いような気がします。つまり雑修とは御名を唱えること以外の行を意味しています。

 

私は私の年齢でそれなりには真宗を理解してはいると思いますが、それでも正統な教義から外れた理解をすることが多々あります。なので、「雑修は雑縁をもたらす」に関しても、自分の理解をもとに実行することになります。正統な教義の理解というわけではありません。専修というのは阿弥陀様の御名を唱えることですが、その本質は阿弥陀様を憶念することです(ただし場合によってはこれも正統な教義ではありません)。なので阿弥陀様を憶念しながらなすことはすべて専修であると私は受け取ることにします。ならば「雑修は雑縁をもたらす」をどう理解するか? 愛する御名・御姿を憶念することなく行うことはすべて雑修であり、そのような行為がすべて不届きであるわけではないのですが、本来的でない雑縁を作りかねず、人生を歩む上での妨げとなりうることをしっかりと理解しておきたい。これが―「雑修は雑縁をもたらす」を心に留め置く―というテーマで意味したいことです。

 

詳しい文言は忘れましたが、道教にも「自分と関わりのない霊的な教えと交わると身に危険をもたらすことがある」というような言葉があったはずです。人はそれぞれ心惹かれる御名と御姿があり、また心に響く御教えがあるものです。それは自らの本性が求めるところのものであるのでしょうから、それに従うのが長い目で見て最も好ましいと私は思うのです。まずは心に訴えかける御名、御姿、御教えにとことん従ってみる。それで十分に心の満足が得られれば、他の御教えなどに目を向ける必要はありません。井戸を掘るにも一箇所を掘り続けてこそ地下を流れる水に到達できるというものです。そして水が湧き出てくればもう他に井戸を掘る必要はないわけです。自分が従おうとするもの以外がよくない宗派であるというわけでは決してありません。自分にとって自然なものに従うのが最も良いということをいいたいだけです。

 

また―「雑修は雑縁をもたらす」を心に留め置く―というテーマは、心が欲望に従ってあちこちさまようのを少しでもコントロールしたいという意味も私は含めています。気をつけないと、欲望は雪だるま式に増えていくものです。このことへの戒めもあります。

 

まとめますと、今年のテーマは―「雑修は雑縁をもたらす」を心に留め置く―です。そしてサブテーマとして昨年し残した「自分の家と周囲の環境を清潔に保ちなさい。あなたと社会に健康と幸福が約束されます。」を取り上げます。両方とも大きな課題ですので、今年一年で満足にやり遂げることができるかわかりませんが、挑戦していくつもりです。

 

皆様も、年頭の抱負・目標があると時間を無駄に過ごすことなく、方向感覚をもって生きていけると思いますので、考えてみられるのをおすすめします。またこのブログを読んでくださる方々(それ以外の方々もです)が健康で平安な一年を過ごされますことを祈念いたします。どうぞ一年よろしくお願いいたします。

一年の目標の振り返り

 

今日は12月22日で、29日もいつもブログの記事をアップする火曜日なのですが、今年は今日の記事で終わりにしたいと思います。今年最後になりますので、一年の最初に掲げた目標の振り返りをしたいと思います。今年の目標は「自分の家と周囲の環境を清潔に保ちなさい。あなたと社会に健康と幸福が約束されます。」でした。

 

aitasaka.hatenablog.com

 

振り返ってみて、まあまあ目標に沿った過ごし方ができたと思います。年がら年中片付けをしていたら、私の場合少し気が滅入るので、少しずつしか家の内外を片付け整理することはできませんでしたが、まあ満足できる程度のことはできました。1年が過ぎてみて思うのは、きちんと片付け切るにはあともう1年はかかりそうだということです。今は年末が近づいてきて、一年のまとめの大掃除に少しずつ取り掛かっているのですが、家の中はまだしも、敷地を手入れするのに時間が足りそうにありません。敷地内に何本か木があるのですが、本当は剪定などもしたかったのです。しかしできませんでした。

 

家にあるものを多少は活用できました。今年は家の梅の木になった梅で梅干しだけでなく梅シロップを作ったり、お茶の木の葉や柿の葉、レモングラスなどでお茶を作ったり、畑で例年より野菜づくりをしました。失敗も多くありましたが、その分学びもありました。畑を活用した来年に向けての計画もすでにある程度立っています。台所ゴミをもちいた堆肥作りも軌道に乗ってきました。

 

地域の自治会での清掃にもきちんと参加できましたし、少し離れたところのゴミ拾いも少しはできました。地域の土地の管理に関しては、私ができることはわずかでして、近所の方々は田畑や池、その周辺の管理に多大な力を注がれています。

 

自分の身の回りの状況は自分の心をあらわしているというならば、少しばかりは心の掃除も進んだということでしょう。一年経った実感として、心がより落ち着いたと思います。つまり、「自分の家と周囲の環境を清潔に保ちなさい。あなたと社会に健康と幸福が約束されます。」とありますが、少しばかりは幸福度が上がったのでしょう。昔からの持病の他はやけどがあったくらいのもので、健康を崩すということはありませんでした。総じて目標に沿うことのできた良き一年であったといえます。


ただ世間では今年は何といっても新型コロナウィルスが広まり、人によっては雇い止めなどで困窮した方がいらっしゃいます。これを読んでいる方の中にも物心両面で多少なりとも影響を受けた人がいると思います。新型コロナウィルスの影響をいつ世界が乗り越えることができるのかわかりませんが、多くの方々が何とか生活をやりくりして困難を乗り越えていってほしいです。新型ウィルスの影響を被った方が直接の対象というわけではありませんが、困窮している方のためにわずかばかりは時間やお金を使ったつもりでいます。私もいつ思わぬ出来事で困窮するかはわかりませんし、お互い様ということで、自分に何かできるときはそのできることを今後もするつもりでいます。

 

何はともあれ、これを読んで下さる方々だけでなく、日本中の人、世界中の人がよき年末年始を迎えられることを願っています。今年一年このブログを読んでくださってありがとうございます。時にわかりにくい文章で拙いことを書くことがありますが、今後もどうぞよろしくお願いします。来週はブログをお休みしますので、次回は1月5日になります。

泥棒

 


ブッダは6年の長きにわたり苦行をしました。ある日ブッダは目を開けて、泥棒を捕まえたといいました。泥棒とはだれでしょう? 心(マインド)です。ブッダは、心(マインド)こそすべての苦しみの原因だと気づいたのです。心(マインド)をコントロールすれば、決して苦しむことはないでしょう。」

 

お釈迦様は苦しみの問題に取り憑かれていましたので、お釈迦様にとって苦しみの原因が心(マインド)であるということは、心(マインド)が人から喜びや幸福や平安などを奪い去るものであったわけで、その文脈で心(マインド)が泥棒であると主張されているのでしょう。人に苦しみをもたらすものの正体を突き止めたわけです。人が何かの問題に取り憑かれているとき、その問題の原因を突き止めることは大きな前進です。お釈迦様が王宮から逃げ出したのは20代の終わりで、悟りを開いたのが35歳ころだとされますから、お釈迦様が泥棒を捕まえたことは画期的なことであるといえます。

 

お釈迦様と比べても仕方ないのですが、私も最近泥棒を捕まえました。私がいうところの泥棒は、お釈迦様が捕まえた泥棒とは少しばかり異なります。私が捕まえた泥棒は、人生を奪い去ってしまう泥棒のことです。つまり、貴重な人生の時間をつまらないことに浪費させてしまう原因となるもののことです。その正体は、端的にいえばエゴとそれを前提とした欲望のことです。このブログでは何回か書いているのではないかと思いますが、エゴとは肉体を自分と同一視することによってもたらされた心の一つの傾向のことです。そしてそれを前提とした欲望とは、肉体を楽しませることを目的としてさまざまな意図をもつことです。

 

今年はあまり時間をとることができなかったのですが、私は山の中を歩くのが好きで、物を考えるというか、物思いにふけりながら自然に触れるのが好きなのですが、登山者が一日に何十人といるような山でなく、一週間に10人も歩く人がいるかどうかというような道を好むところがあります。道はあるのですが、落ち葉が多い時期だと人の踏み跡がはっきりしなくなることもあるようなそういう道です。そういう道では、時に野生動物の気配を感じることがあります。シカやイノシシです。クマの噂があるところも少しばかり歩きます。そういうような人気(ひとけ)があまりない自然の中にいると、自分の姿というものが結構あらわになるものです。自然は一つの鏡であって、自然にどっぷり浸っていると、知らなかったものを含め自分の姿が立ちあらわれてきます。私にとってはそれが学びになるわけです。私が泥棒を捕まえたというとき、そういう山歩きを通して得られた自分の姿のことをいっています。

 

私は一人で歩くことが多いので、自分のことを知るきっかけが得られますが、他人のことをよく知るために、人をキャンプに誘う人もいると聞きます。人と1度山歩きを共にすることは10度街中で会って話をするほどに濃密であるという人もいます。人をより知りたいときには山歩きやキャンプに誘うのもいいでしょう。

 

それはさておき、私が捕まえた泥棒であるエゴと欲望。それを一度に取り除くことは難しいのですが、紐に縛り付けて柱にくくっておくことくらいはしないといけません。さもないと、インターネットの前で長い時間を過ごしたり、ショッピングセンターで長い時間を過ごしたり、パズルゲームで時間を浪費したりなどという悪習を根絶できません。多少の気分転換は必要でも限度というものがありますから。時間の浪費は人生の浪費です。この今の人生を無駄にしてしまってはなりませんもの。

 

お釈迦様が泥棒と呼ぶ心(マインド)。だれもが心(マインド)に振り回される傾向を持っているでしょうが、おそらくお釈迦様は心(マインド)の全貌を掴んだのだと思います。全体像を理解したのだと思います。それを手懐けるきっかけを手にしたのだと思います。私も泥棒であるエゴを捕まえたと主張するなら、多少なりともそれをコントロールできなければなりません。人生を泥棒に奪われたままにしておくのを許してはなりません。どうすればいいかという対策は少しばかりあります。それに沿って地道は努力を重ねていくしかありません。

ガネーシャ神の恩寵

 

以前書いたことの繰り返しになりますが、私の宗教は浄土真宗阿弥陀様を崇めています。しかしながら阿弥陀仏は真如から現れた報身だと聞くこともあり、私はその真如に関心をもっています。真如は真理のことで、他宗教のいう神、ブラフマンに近いところの概念でしょうから、私に一神教的な傾向があるのは否めません。加えて霊性の道を歩む上で師を崇めています。本来はそれで十分なはずなのですが、私は運良くヴェーダを学ぶ機会があって、これは古代に日本に仏教が伝わってきたのと同じくらい歴史的に意義のあることですので、ヴェーダを可能な範囲で大切にしています。ヴェーダを学ぶ上で欠かせないのがガヤトリーマントラで、ガヤトリー女神も崇めているわけです。ただヴェーダに関わらずガヤトリーマントラは万人にお勧めです。それとは別に私はガネーシャ神の恩寵も受けていると何となく感じています。私のこのようなあり様は、日本ではあまり一般的ではないわけですが、現実に今私はそういう状態なのでどうのこうの申し開きができません。

 

ガネーシャ神を熱心に崇め、礼拝しているというわけではなく、私がこれまで霊性の道をたどる中で行ってきたことが、ガネーシャ原理にまつわることが多かったというだけのことです。それゆえに、ガネーシャ神の恩寵、つまり知性や英知、言語能力、進取の気質などに少しばかり恵まれてきたと思うのです。

 

シヴァ神パールヴァティー女神、ガネーシャ神、スッブラマンニャ神は家族とされていて、ガネーシャが兄、スッブラマンニャが弟です。あるとき、シヴァとパールヴァティーの両親が二人の息子に世界を一周するように命じ、競争に勝って先に戻ってきたものに褒美を与えるといったそうです。スッブラマンニャの乗り物はクジャクで、ガネーシャの乗り物はネズミです。スッブラマンニャは急いで世界一周の旅に飛び立った一方、ガネーシャは早く進むことができません。そんな困った時にナーラダ仙がやってきてアドバイスをするには、「両親の周りを回りなさい。子にとって両親は全世界そのものです。」といったそうです。それに従ってガネーシャシヴァ神パールヴァティー女神の周りを回り、世界一周をしてきましたと報告すると、シヴァ神パールヴァティー女神はそれを認め、勝者はガネーシャ神であると宣言しました。

この話にはもう一つパターンがあって、シヴァ神パールヴァティー女神の周りではなく、ラーマ神の名を書いてその周りを回りなさいとナーラダ仙からアドバイスされたという話があります。ラーマ神の御名には全世界が含まれているとされています。このラーマ神の御名のパターンでもガネーシャ神が勝者だとされます。

 

どちらでもいいのですが、私はこれまであくまで自分なりにですが、両親に対してできるだけ尊んで接してきました。そして同時に宗派が真宗であることもあり、御名を生活の基盤においているのも、あくまでも可能な範囲でですが確かです。両親を尊ぶことと御名を尊ぶことはかなり生活の中に入り込んできました。

 

先にも触れたようにガネーシャ神の乗り物はネズミです。ネズミは暗く狭いところに生息しています。霊性の領域というのは、世間一般の人から見ればそれと同じようによくわからなく窮屈な暗い世界です。私はある意味そういう世界に生息しています。

 

ガネーシャ神の頭は象ですが、象は一般に牙が2つあるにも関わらず、ガネーシャ神の牙は1つです。それはoneness, unity(一つであること)を象徴しています。また一点集中の知性も象徴しています。普通の人は証拠がないと何かを適切に信じることはほぼないわけですが、一点集中の知性を備えている人は証拠がなくても正しいことを適切に理解できます。私は長年にわたって霊性の道を歩んできて、すべてが一つであることに関して今現在少しばかりですが理解があると思っています。また私は汎神論的な傾向が若い時からあったのですが、その延長上を生きているともいえます。

 

ガネーシャは別名ガナパティといいます。ガナのパティ(主人)です。ガナにはいろいろな意味があるのでしょうが、ここでは次のように解釈します。つまり、5つの行動器官(手、足、舌、生殖器官、排泄器官)、5つの感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、5つのプラーナ(生気)、マナス(マインド)、チット(記憶)、ブッディ(知性)、フリダヤ(ハート、エゴ)などをはじめとする心身の諸器官のことです。私は日常的に光明瞑想をしていますので、これらを可能な範囲でコントロールしようと日々努めています。

 

つまり私は、1.両親を尊び、2.御名を生活の中心にし、3.霊性の領域に生き、4.oneness,unity(一つであること)の体験を深め、5.心身の諸器官をコントロールするよう努めているわけです。ガネーシャ神をことさら意識してきたというわけではないのですが、振り返ってみればガネーシャ原理を実践してきた自分がいます。少しばかり中途半端なところもありはするのですが。そのおかげもあって、ガネーシャ神に守ってもらっているように何となく感じるわけです。他にもガネーシャ原理はあるでしょうし、私以外にもガネーシャ原理を知らずに生活に取り入れている方もいるでしょう。ガネーシャ神は私にとって意外に身近な神様です。

神のペースで歩む


「幸せは神と一つになることです。(Happiness is union with God.)ババ」という言葉にまつわることを少し触れてみたいと思います。この文を読んで、一見神との融合つまり人生の目的を達成することと受け取ってしまいかねませんが、人によって解釈はさまざまでしょう。私は基本的に個人個人の解釈の多様性を許容する方の人間で、これが唯一正しい物の見方であるというような主張は自分はしませんし、他の人が主張していても適当に聞き流すことが多いでしょう。その人が長年置かれた状況での体験に基づいた見解ならば、少なくともその人には役立つと思いますし、似た境遇の人にも何かが伝わるでしょうから、各人の解釈を大概尊重しています。「幸せは神と一つになることです。」に関して、私は二通りの解釈をしています。一つは内在する神性と心、身体が調和的であることです。もう一つは自分の周辺を含め遍在の神を意識して日々生活することです。前者に関してはたびたび身体-心-アートマの文脈で語ってきたので、今日は後者に関して書いてみます。

 

神を信じる人が神を思いながら生活するのに三通りの人がいるでしょう。一つは神のあとを歩む人、一つは神のペースで歩む人、一つは神に先んじて歩む人です。ただそもそも神が歩んでいるのだろうかと疑問を持つ人がいるかも知れません。理解してもらえるかわかりませんが、あくまでも私の思うところでは、神は信者の日々の歩みを一歩一歩導いてくださっていて、信者に寄り添ってくださっているわけです。少なくとも信者は神の存在を身近に感じているのが好ましいように思います。あるいは神が歩んでいる周辺に信者は存在しているともいえます。神のあとを歩む人は、神の後ろに離れて人生の歩みを進めています。一定の距離を保てればいいでしょうが、ときに見失ってしまうリスクがあります。神の御教えに従いはしますが、脇道に入ることがあります。神に先んじて歩む人もいます。神は自分にこれを求めている、神の御教えのこれこれに従うべきだと、神の指示を先読みして生きます。実際にそういう人はいます。そしてもう一つは神のペースで歩む人です。いつも神の横にいて、神と歩調を合わせている人です。御教えに従いつつ、それ以上に神と離れないことを大切にしています。これらの三通りの人の中で神の存在をいつも感じているのは、神のペースで歩む人だけです。神といつも雑談(語りかけ)をしているのも神のペースで歩む人です。

 

神の存在をいつも感じているというのが一つのポイントです。もう一つのポイントは、一日一歩毎日歩むということです。神のあとを歩む人は、一日一歩歩く日もありますが、サボる日もあります。神に先んじて歩む人は、一日に二歩も三歩もあるいはそれ以上も歩むことがあります。こういう人は人生の目的地に早く到着したいという願望が強いのでしょうが、そのうち疲れたり、神の存在を感じれなくなることがあります。一日一歩のペースが神と共に歩むにちょうどいいペースだと私は経験から思います。一歩とは何かという問題は今日は触れないでおきます。自分でそう感じれたらそれが一番いいのです。

 

話は変わりますが、相撲に一日一番という言葉があります。特に優勝を争っている関取が口にするのをよく聞きます。優勝が手の届くところに来ると、そっちに気が向いて目の前の一番に集中できなくなったり、緊張して身体が動かなくなったりするようで、優勝のことや翌日の取り組み、他の力士の勝敗のことは考えずに今日の自分の取り組みに意識を集中することが大切だということです。一日一番を心がけていたら、結果はあとから付いてくるといいます。これは一日一歩に近いニュアンスがあります。相撲と同じで一日一歩を心がけていたら、気づいた時に何らかの結果を手にしていることはありそうです。

 

私はこれまでの人生、思っていたことが思っていたとおりにならないことが多かったので、あまり遠い未来を念頭に置くことはなくなってしまい、結果として一日一歩歩むことができれば満足するようになりました。他の人から見たら自分の未来に関して無責任なのではないかと思われるかもしれません。ただ「幸せは神と一つになることです。」という言葉に照らしたとき、一つにはなっていないかもしれませんが、大概共に歩んでいる(一つの単位unionになっている)ので、それなりの幸せは手にしているつもりです。孔子は50歳は知命(天命を知る)の年だとおっしゃいましたが、具体的な天命は知らないまでも、私も50を過ぎ、それなりに確かな人生の方向性は定まったといえそうです。

サティヤサイババ御降誕95周年

 

これを書いているのは11月23日ですが、11月23日はサティヤサイババが降誕された日です。1926年11月23日に降誕されました。インドでは日本の数え年のように年を数えるようで、今年は御降誕95周年が世界各地で祝われています。11月23日は毎年盛大に祝われるのですが、私の気のせいか5の倍数の時は一層盛大な印象を受けます。この日は彼の存在によって人生に大きな影響を受けた人々が、純粋に彼の御降誕を喜び日になっています。正確にいえば彼の肉体が母親の母体からこの世に出てきたのは11月24日の早朝なのですが、インドでは日が明けるまで日付が変わりません。つまり24日に太陽が登って初めて24日になるのであって、現代の世界共通の時間の測り方でいう0時を超えていても日の出前は23日とされます。この記事がアップされる時間前後が彼の肉体がこの世に生まれでた時刻になります。

 

日本の大きな書店に行くと宗教やスピリチュアルのコーナーがありますが、そこにはさまざまなインドの聖者たちの本が並んでいます。しかし私がインドの方に直接聞いたところによると、現代インドで真に聖者の名に値するのはラマナマハルシとオーロビンドの二人だけだそうです。ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダは近代の聖者です。オーロビンドの言葉に次のようなものがあります。「1926年11月24日、クリシュナが人間の身体に降臨した。絶対的な力が地上の人々の思考を導き、心に不滅の炎を灯し、一般大衆さえもその声を聞くだろう!」この言葉がいつの時点でオーロビンドの口から発せられたのかは知らないのですが、もし仮にサイババサイババ宣言をする以前にオーロビンドが彼の降誕を知っていたとするならば、オーロビンドは真に聖者の名に値します。クリシュナは約5000年前に実在したアヴァターとされます。アヴァターの降誕を直接感知することのできる優れた人は極めて稀です。

 

サイババの名の由来については次の記事の中に書かれています。

サイババの御言葉  シルディサイの物語

サイババにはシルディサイババとサティヤサイババがいます。サティヤサイババサイババ宣言をした時、彼は自分がシルディサイババの生まれ変わりだといいました。シルディとは19世紀から20世紀初頭にかけてサイババが滞在した土地の名です。サティヤサイババのサティヤは真理という意味で、生まれた時に彼の肉体につけられた名前です。また彼の言葉がまさに真理であったので、その意味も含まれています。サティヤサイババは2011年4月24日に肉体を去りましたが、彼の生前中彼はプレマサイババとして生まれ変わりといっていました。それがいつになるのかは誰もわかりませんが、もうすでに生まれてきていると受け取る人もいます。ただし彼がプレマサイババ宣言をするのは20歳ころだということなので、プレマサイババのことを世間の人が知るのは早くても20年近く後なのかもしれません。仮に20年後とすると私はその頃まで生きていれば70代に入っており、プレマサイババの存在を知っても、サティヤサイババの御姿に愛着を持ち続けると思います。シルディサイババとサティヤサイババとプレマサイババは多少印象は違っていてもその実体は一貫して変化がないとされます。サティヤサイババの肉体に縁がなかった人でも、サイババへの関心を持ち続けていればプレマサイババの肉体に会い、その愛(プレマ)を体験する機会を得る可能性はあります。

 

サティヤサイババに関して知るには

www.sathyasai.or.jp

saireflections.org

media.radiosai.org

その他のサイトから情報を得ることができます。これらの公式サイトから情報を得るのが確実です。日本で出版されている書籍には優れたものもありますが、私から見て問題のある書籍もたくさんあります。書籍を読むならサティヤサイ出版協会から出ているものがおすすめです。

 

サティヤサイババは主にインドでアヴァター(神の化身)だとされていますが、このことに関して私は特にいうことはありません。彼が本当にアヴァターなのかどうかに関心がある人は自分で調べてもらいたいです。調べる際に参考になるのが先に挙げた公式サイトやサティヤサイ出版協会から出ている書籍です。短い時間で彼がアヴァターだと思うようになった人もいれば、長い時間をかけてそう思うようになった人もいますし、しかし彼をアヴァターだと思えない人もいます。日本では約30年近く前にサイババの名と姿がメディアで大々的に取り上げられましたが、日本人のほとんどは彼をよく調べることがないままで、アヴァターだと信じることがないのが現状です。若い人たちは彼の存在自体についてほぼ知らないはずです。

 

私はサティヤサイババの肉体の近くに行ったことはありません。つまりインドに行ったことはありません。いま日本で彼が本物だと信じている人のほとんどはインドに行って彼の肉体を見ているのではないでしょうか。彼の肉体の近くに行けなかったのは残念ではありますが、私は夢の中では幾度もコミュニケーションがあります。最近彼を知った人を含め、私と同じように彼の肉体に会えずじまいだった人は熱心に彼を求めれば夢で彼に会える可能性はあります。夢でなくても可能性がないわけではありません。肉体の彼に会わないのに彼を信じることのできる人は真に祝福されていると聞いたことがあります。そういう人はあまりいないようです。私は25年ほど前に彼の講話集の日本語訳を読んで普通の人間の言葉ではないと衝撃を受けました。他の聖者の本を読んでもそういうことは感じませんでした。誤解されては困るのですが、他の聖者は私とレベルにそれほど大きな違いがあるわけではなく、しかし彼の言葉はまったく違っていました。これは私の感性の問題なのでしょうが、それ以来私は彼の言葉から喜びや慰め、勇気などを得てきました。彼に関心があってももうすでに彼に会うことのできない人は、彼に会って彼から影響を受けた人より、彼に会うことのなかった私の方が参考になることが多いかもしれません。

 

この記事は私が彼の御降誕を喜ぶその気持ちの一端を表したものです。

神仏と一対一の関係を築く

 

この世の中にまったくの無神論者がいるのかどうか私はわかりません。宗教を信じていなくても、なんとなく超越的な存在を意識することは誰にでもあるでしょうし、そしてその超越的な存在を神仏と思わなくても特に構わないと思うのです。あるいは思議が不能な存在に出会うことも長い人生の中でありそうなものです。

 

まったくの無神論者がいるのかどうかはおいておいて、今は神仏の存在を前提としている人について考えます。神仏の存在を疑うことがなくても、信仰の度合いは様々です。全面的に信じている人もいれば、恐怖心を感じて避けようとする人もいます。神仏の存在を前提として神仏に敵対しようとする人さえいます。ただ今その人がどうであろうとも、人が信仰心を深めようとするならば、その人はいつか神仏との一対一の関係を持たなければならない日が来ます。人はお寺や教会に行って、仏様や神様の話を聞いているでしょう。聖典を読んだりしているでしょう。最初はおそらくそれらの話がどこか他人事だと感じます。誰か他の人のための教えだと感じたりします。しかしそれらの聖職者や聖典の言葉がまさに自分自身のためのものであると受け止めなければならない状況に、いつの日か誰もが投げ込まれます。自分と神仏との間に、聖職者や親あるいは配偶者をはさまずに、神仏と向き合わざるを得ないのです。

 

神仏と向き合う際に2つの態度があるかもしれません。一つは自分は神仏のお側にいる資格のある、あるいは神仏と関係を持つのにふさわしい、何のわだかまりもない清廉潔癖な人間だとして向き合おうとする人。もう一つは自分にはいいところも悪いところもあって必ずしも立派とはいえないけれども、それでも神仏に向き合おうとする人です。私の宗派は真宗で、真宗は伝統的に後者の人たちが多い宗派です。どこまでが真宗の影響かはわかりませんが、私も後者の人間です。ただあらかじめいっておきますと、今は神様仏様と関係を持つことに焦点を当てているのであって、どちらの態度がいいとかいうわけではありません。

 

話をわかりやすくするために例を上げましょう。真宗は別に悪い人間として生きなさいといっている宗派ではなく、多くの真宗門徒は普通に常識的に生きています。しかしながら、きっかけさえあれば自分が何をしでかすかわからない人間だということは自覚するように勧められています。例えば性欲です。人間の15%は動物性だとされていますから、それは人間の構成要素の一つといっていいでしょう。子孫をもうけなくては人類はあっという間に途絶えてしまいます。私が自分の動物性を最も感じるのは食欲や睡眠欲、恐怖(安全欲)ではなく性欲です。私が信じているところでは、神様仏様というのは人の心の中のすべての思いを知っています。自分が知らないことすら神様仏様は知っています。何も隠すことはできません。なので自分が性欲の影響を受けている時、私は神様仏様にある種卑しいあるいは動物のような自分を見られていると観念しています。そんな私でも神様仏様と関係を持てています。私があまり傲慢でなくいられるのはそのおかげです。

 

あるいは怒りです。怒りも人間的な性質とはいえません。生きていると頭にカチンとくることがたまにあります。そしてカチンときたときは、いつもではないですが、時に相手に対して心の中で悪態をついています。こんなことも神様仏様は全部お見通しです。

 

性欲の影響から少しでも免れるように、食事や目にするものに気をつけています。怒りを感じてもできるだけ気をそらせてよくない態度を取らないようにしてはいます。それでも人間は先に述べたように動物的な性質の影響を受けます。そんな欠点のある自分でも神様仏様は暖かく見守り導いてくださっていると思えるだけの関係が神仏と私の間にあると思っています。そういう関係を築くように長年努めてきました。私にとっては、神様仏様と関係を築くことは、自分のありのままの姿を知る作業を伴っていたのですが、これは真宗門徒がよくいう「こんな私こそが阿弥陀様の目当てである」ということばの通りです。

 

神仏と一対一の直接の関係を持つことは信仰の道を歩む人にとっていつか必ず必要となることです。時に駆け引きをすることがあるかもしれません。時に自分の心と裏腹に全面的に委ねたふりをして見るかもしれません。神仏と関係を築く時に必要なのは誠実さや何も見返りを求めない神仏への愛なのでしょうが、大切なのは関係を築いてしまうことで、どういう道を辿ろうと一旦築いてしまえばどの道でもいいわけです。

 

今日は神仏と一対一の関係を築くことについて書きましたが、私の個人的な経験からは一つの真宗論を読み取ることも可能でしょう。真宗阿弥陀様との一対一の関係を築くことを目的とした宗派だともいえます。

1日1食(2)

 

私は今年の5月に1日1食の生活を始めました。そのことはこのブログで書きました。以後半年が経ちましたので、その間の経過を簡単ながら残しておきたいと思います。今の状況ですが、1日1食はだいぶ曖昧になってきています。きちんとした食事は1食なのですが、1日1食と言い切れないほどに他にも食べています。

 

aitasaka.hatenablog.com

 

1日1食を始めて1ヶ月で70kg少しあった体重が65kgくらいまで簡単に減りました。私が1日1食を始める際に参考にした本によれば、体重の減少はそのうち収まるとありましたが、その後も1食を続けている内に更に62kgを切るようになりました。今は間食が増え64kg前後です。BMIでいうと20.4ほどです。普通体重の範囲内ですが少し痩せ気味です。BMIが18.5を下回ると低体重とされます。またBMIが18.5を下回ると多少肥満の人よりも死亡率が高まるとかつて聞いたことがあります。また1ヶ月ほど前でしたが、血液検査をすることがあったのですが、その際医師の方からこれ以上体重が減らないように気をつけなさいと指摘がありました。そのため今は体重が64~65kg程度であるように食事をコントロールしています。私は持病がありますので、無理をしないようにしました。

 

きちんとした食事は夕食だけです。しかし朝に前日の残り物を食べたり、あるいは豆腐を一丁とちょっとした付け合せで食べたりしています。昼は空腹でないときは食べないのですが、空腹を感じるときは軽食といっていい程度の食事をとっています。その他に菓子を少し口にしています。以上で体重を64~65kgに維持できています。総じて1日1食は適切に実行に移せなかったといえます。

 

ただし血液検査の結果を見る限り、食事の量を減らした影響は見られなかったようで、たとえば栄養状態を表すアルブミンは平均値で栄養不良ではありません。食事の量を減らしたけれども、体調が悪化したとはいえない状態です。1日3食のときに比べて少しの食事量で体調が同じように維持できているといえます。

 

食事を減らしたことによる想念の減少もそのままで、そのことを考えても食事を少し減らしてみてよかったと思います。想念が減るということは心の患いが減るということなので、生活は快適になったといえます。普段の日々のありようも変わりません。なので食事を減らしたことによって、何か問題が生じたわけではなく、少ない食事量でわずかなりともより快適な生活が得られたといっていいでしょう。

 

当面は今の食事のありようを変えずに過ごしていくつもりです。あと10歳、20歳年を取れば代謝量がより減り、もう少し食事の量を減らすことも可能かもしれませんが、それはその時に考えます。少食であるがゆえに、食事の質には気をつけなければいけないなと、これだけは頭に入れておきたいです。